生命の實相第三巻

 

 

 

○ 「生長の家」とはなんであるか

 

 

 

 

◉ 昨日のところです。

 

 

真理の力で病気が治る、病気が治ったならば、同じ真理が経済難、生活難をも治して行くのであります。この真理が愛の神、智慧の神、救済の神として人格化して現われ給うたのが「生長の家の神さま」なのであります。

 

安藤かよ子さんは目覚める前に、しばし恐怖のために、本当に明るい前途を見る目を閉じていられただけの相違はあります。どちらも真理の悟りで肉体の病気が治ったのでありますからこの悟りを突き抜いて行くことによって経済難を突破するのも今一息のところなのであります。

 

私から安藤さんへただ真理を開眼するだけの何の奇もない一通の手紙を差上げましたところが既に光の前にいながら、光の眩しさを恐れて眼を閉じていられた安藤さんの心の眼がひらいたのであります。三月二十六日付の礼状には次のようなことが認めてあります。

 

 

 

 

 

つづき

 

 

 

 

「御深切なありがたい御手紙嬉しく嬉しく繰り返し拝見いたしました。

 

 

 

聖典『生命の實相』をよむようになってからおぼろげながらも真理がわかり光明を見る事が出来るように覚えますが心の内から内からとまたしても暗い影迷いの心におそわれ苦しみ通して心の結ばれのとける暇もございませんでした。

 

 

 

先日先生からの御手紙一字一句と読んで参りますうちに自分ながら不思議な程、頭から胸と体全体が清水にきよめられたようないうにいわれぬすがすがしい感じにうたれました。

 

 

 

その刹那思わず心の中でここだと叫びました。今まで何年となく苦にした財政整理もやはりみれん執著(しゅうぢゃく)余りにも他に頼り過ぎた為でした。

 

 

 

やらなければならぬものはやり、当然奪(と)らるべき物は何によらずとらしてやりましょう。今はもう何もおそろしい事がありません。

 

 

 

この四、五日本当に朗らかな気分になりました。これも偏(ひと)えに生長の家の先生のお蔭と心から深謝いたします。

 

 

 

財政整理断行いたします。そして無尽無限の自己の力を信頼して更生の道へと進み、すべて神にゆだね如何なる苦労もよろこんでうけましょう。何卒今後ともよろしくご指導下さいまし。

 

 

 

主人も誌友の一人になっております、先生からの御手紙拝見いたし大変よろこび、以前と変った別人になりました。

 

 

 

生来短気な人で少しの事でもおこり時々家庭をくらくしておったのでございますが私共もきっと真の幸福を得られると信じます。先は乱筆にて失礼ながら御礼まで申上げます。

 

 

 

かしこ

 

 

 

 

こういう風に「生長の家」は経済的に悩んでいる者にも、本当にその人が生きて行くべき真理の道を示し、その正しい活路を拓いて人間を経済的悩みから救うてとても朗らかな明るい人間として更生させるのであります。

 

 

 

生来短期な人も短期でなくなる。人間自身の「生命の實相」を自覚するからであります。

 

 

 

この吾が「生命」の神から造られたままの完全円満な實相(ほんとうのすがた)を自覚することが、大覚(さとり)を開くということであって何より尊いことであります。

 

 

 

生長の家をただ病気を治す治療所のように思っていられると間違いであって、この大覚をひらかせることが目的なのであります。

 

 

 

病気を癒(なお)したいだけで、治ったら生長の家所説の真理を離れて、また病気になったら直接治療なり、遠隔治療なりを頼む、治ればまた去る。

 

 

 

そういう風に生長の家の所説の真理を医者や按摩や、空(す)き腹(はら)の飯のように思っていられる方は大変な見当違いをしていられるのであります。

 

 

 

そんな人は空腹時に生長の家の神様の啓示し給える真理を読んでみても腹が脹(ふく)れなかったのに、

 

 

 

今度は飯を食ってみたら実際に腹が脹れたなどいって、「真理」よりも飯の方がよく効くと思ったり、

 

 

 

働いて汗が出たから生長の家所説の真理を読んだら汗がなくなるかと思って読んで見たが一向汗がとれなかった。

 

 

 

で今度は風呂へ入って石鹸を使つてみたら却(かえ)つて汗がきれいにながれて気持ちがよかつた、だから「真理」なんてものよりも「石鹸」の方がよく効くなどといって見当違いをせられたりするのであります。

 

 

 

「真理」というものは米や、石鹸のように物質ではないのであって大生命の根本智でありますから、異常の時には神姿とも顕れ、敵弾をも近づけない楯となり砦ともなっては下さいますが、

 

 

 

そんなことが「真理」の本体ではない、それは仮現(かげん)であり、神縁ある人の信仰を高める非常手段として神の方便智が神通現象として現われるのでありますが、「真理」というものが本当に尊いのは、そんな所にあるのではない。

 

 

 

吾々自身が「真理」(神の子)であることが尊いのである。

 

 

 

これを自覚したときに吾々は自由自在境に達し得るので何も真理を米の代りにたべなくとも米が欲しかったら米が集って来、石鹸が欲しかったら石鹸が集って来、

 

 

 

健康が欲しかったら自分に適する健康法が自分の生活の中に自然に織込まれるようになって来、

 

 

 

また或る時には求めるものが与えられないで、求めた以上に自分に必要だったと後からわかるような結構なものが与えられて来るのであります。

 

 

 

宇宙は全体で渾然(こんぜん)とした一つでありますから、そういう必要なものを何でも与えられることが神の摂理の糸にあやつられて自由自在に出て来るので、

 

 

 

ここに個の力の我儘(わがまま)というような自由自在ではなく、「全体の我(われ)」としての自由自在が体験されて、

 

 

 

そこに無限の安心立命を得、なるほど「真理の力は有難い」と解るのであります。

 

 

 

この「全体の我としての自由自在」ということが解らなければ一時は景気がよくとも結局は行き詰ってしまうのであります。

 

 

 

次章には「生長の家は何を信ずるか」と題して一層深くこの問題を説明しようと思います。

 

 

 

 

○ 生命の実相を信ぜよ。実相の神を信ぜよ。実相の神に結び付く時、一切の罪は消える。実相の世界に罪は存在しないからである。

 

(「智慧の言葉」より

 

 

 

 

○ 日子(ひこ)と日女(ひめ)

 

 

吾らは古来、人類が全て神の子であり、何某(なにがし)の尊(みこと)であり、日子(彦)であり、日女(姫)であるとの自覚をもった。

 

今こそ一層人類が全て日子であり、日女であり、尊き神の子であり、何某の尊であるということを知らねばならぬ。須(すべか)らく人類は輝く太陽神の子孫であるということを自覚しなければならぬ。

 

これは古代日本人の原始的迷信などと思ってはならない。一切の生命は太陽を源として生れて来るものであることを近代の科学は証明している。

 

 

 

 

 

 

谷口雅春著「生命の実相第三巻」「生長の家」とはなんであるか (完)

 

 

 

 

 

☆ 「生長の家」とはなんであるかは今日で終わりになります。明日からは「生長の家」は何を信ずるかです。

 

今朝の産経新聞朝刊に、天皇、皇后両陛下は28日、創建から100年を迎える明治神宮(東京都渋谷区)を参拝された。両陛下に続き、上皇ご夫妻と秋篠宮ご夫妻もご参拝とあり、

 

明治神宮鎮座100年 特別参拝導く光 11月1日に鎮座100年をむかえる明治神宮で30、31日から特別参拝が始まり、献灯とライトアップされた鳥居によって、夜の参道が幻想的にうかびあがったとあり、30、31日両日は午後7時までと書いてあり、

 

天皇、皇后両陛下に上皇様ご夫妻も参拝されたと書いてあるので、これは行かなければならないと思い女房に声かけたら行くと言うので、夜の明治神宮参拝に行って来ました。笑!

 

光に照らされ幻想的でした。それに参拝客の多い事、大晦日ではと思うぐらいでした、お賽銭入れるのに三密でした!笑!でも日本は大丈夫ですね!

 

昔の反日左翼の日教組みたいな学術会議が皇室反対みたいな元号反対唱えても、今日の明治神宮は老いも若きも、又乳母車で小さいお子さん連れて、皆んなにこやかにお参りしていました。日本の繁栄と平和は御皇室のお陰です。

 

天皇陛下万歳!笑!