◎「生命の実相第七巻」

 

 

 

○ 家庭生活を光明化せよ!

 

 

 

 

☆ 昨日の終わり

 

 

たといこの世の中に瓢箪(ひょうたん)から駒(こま)が生まれ出ようとも、「不調和」から「調和」が生まれてくることはむずかしいのである。

 

諸君がもし諸君の立ち対(む)かう人たちを善ならしめようと欲するならば、自分自身がまず調和した心持ちにならなければならないのである。

 

自分の心が乱れ、癇癪(かんしゃく)に触って相手を鋭い言葉で刺し貫いているようなことで、相手を善に化しうるなどと偉そうなことを考えぬがよいのである。

 

 

 

 

 

 

つづき

 

 

 

家庭の中でブツクサ小言を言うものは、ただその家庭に黒雲(くろくも)を投げ込んで、明るい光線を押し消し、澄んだ生々(いきいき)しい空気を、濁った泥水のような空気にしてしまうほかになんの能もないのである。

 

 

 

暗い中で育つものはカビばかりだ。家庭の空気を暗く冷たくして置きながら、美しいバラや牡丹の花のような美徳を咲かせようと思ってもそれは無効だ。北極にはただわずかにヌメヌメしたコケの類が育っているばかりである。

 

 

 

世の中に知らずに犯す残酷(ざんこく)ほど、残忍(ざんにん)なものはないのである。自分のしていることが残酷だと自覚している者は、相手にそれを加える時に、いく分の手加減をするのである。

 

 

 

しかし、知らずに犯す残酷は、それを相手に加えるときに寸毫(すんごう)も手加減(てかげん)が加えられるということがないのである。

 

 

 

自分は子供を愛しているのだ、子供を善くしてやるのだと思いながら、子供を罵(ののし)り、子供を一切ならず失意のドン底に突き落として、追求まだ止まない親たちも世間にはザラにあるのである。

 

 

 

人の魂の希望を失わしめ、彼の進歩する勇気を失わしめるほど残酷な所業(しわざ)はないであろう。それは慢性の他殺であるほか何物でもない。

 

 

 

何よりも残酷なこんな所業(しわざ)を、当の親たり良人たる人が、子や妻に対して口穢(くちぎたな)く罵(ののし)るたびに犯しているのだということを振り返って自覚するとき、誰(たれ)か慄然(りつぜん)たらざるものがあろう。

 

 

 

諸君よ、あなたの家庭を「生長の家」たらしめんと欲せらるれば、心の統制をー瞬時たりとも弛(ゆる)めるな。仮にも不用意な乱れた語調の言葉を話すな。

 

 

 

すべてあなたの家庭にてつかわれる言葉をば「神の子」らしい洗練されたものたらしめよ。互いを尊べ。なぜなら、あなたたちはみんな「神の子」であり、「神の子」の生活を成就するために家庭を造っていられるのであるからである。

 

 

 

すべて批評するものは批評され、罵るものは罵られ、怒るものは怒られ、心の槍にて刺すものは自分もまた心の槍にて刺され、心の刀で切る者は、自分もまた心の刀にて切られるのである。

 

 

 

これは心の法則であって避け難い。和顔愛語(わがんあいご)と相互の感謝は、諸君の家を「生長の家」とするのに欠くベからざる要件であるのである。

 

 

 

家庭のうちで互いに批評し、互いに審判(さば)き、互いに腹立ち、互いに不平をもつ者は、互いに心の刃で斬り合う者であるのである。どんな善人でも斬り合えば傷つかないことはむずかしい。これをただの比喩(ひゆう)だと思うな。

 

 

 

心は必ず形にあらわれる。家庭のうちで血を喀(は)くような病気が起こるのは、家族の心が斬り結んだ事実が肉体にあらわれたのである。諸君よ、心で家族が斬り結ぶな、腹立ちをただ抑えているようなくらいではまだ駄目である。腹が立たなくならなければならないのである。

 

 

 

腹が立って抑えているだけでは『徒然草(つれづれぐさ)』の兼好法師が言ったように「腹ふくるるわざ」となり、胃病とも心臓病ともなるのである。逃げ出したいような感情を抑えていれば、いずらい病ー痔の病ともなるのである。心は必ず形にあらわれる。

 

 

 

諸君の向かうところに常に感謝の心と愛の言葉と、にこやかな表情とを投げかけよ。類は類を招(よ)び周囲を生かす者は自分も生きるのである。感謝と愛語と和顔の中にのみ調和ある空気は生まれ、調和ある空気の中にのみ生長と発達とがあるのである。

 

 

 

「生長の家」の出現とともに、人間は「新しい生命」を見いだしつつある。今まで、人間は物質で造られているもの、死すべきもの、有限なるもの、病むべきもの苦しむべきものの、罪人として報いを受けねばならぬもの、かくあるべく運命づけられているものとされていたのである。

 

 

 

ところが、「生長の家」の出現とともに、人間は別の自分―「本物の自分」を発見したのである。

 

 

 

彼は霊で造られているもの、不死なるもの、無限なるもの、病まざるもの、苦しむこと能わざるもの、本来清浄にして罪に汚染し難きもの、円満に、幸福に、健康に、豊富に、生きることのほかは何事もできないように運命づけられているものであるところの自分を見いだしたのである。

 

 

 

なんという人類全体の更正であろう。なんという人類全体の福音であろう。「真理はなんじを自由ならしめん」と聖書にあるように、人類は「生長の家」によって、真理を与えられて、自己本然の生命の円相を奪還(だっかん)したのである。

 

 

 

 

 

 

谷口雅春著『生命の実相第七巻』 (完)

 

 

 

 

 

☆ 世の中に知らずに犯す残酷(ざんこく)ほど、残忍(ざんにん)なものはないのである。と書いてあります。

 

谷口雅春先生が書かれた「無門関解釈」という本があります。その中に知って犯した罪と、知らずに犯した罪はどちらが重いですかという小僧から和尚さんへの質問があります。

 

囲炉裏の火をはさむ火鉢がありますが、あれを真赤に焼いたのを握る時、知って握るのと知らずに握るのはどちらが大火傷するか?と和尚さんが言うと小僧は知らずに握った方です。というとそうだ、

 

知らずに真赤に焼けた火鉢を握るとしっかり握るので大火傷を負うように知らずに犯した罪が重いと言うことが書いてあります。

 

 

今までの宗教は因縁を説き、業を説き、目には目を、歯には歯を、と因縁業を説いて人間は罪深い者であるから、罪を赦して欲しければ、懺悔しろ、本山に献金しろと言って脅かして来ましたが、

 

谷口雅春先生がお悟りになられて、人間は神の子である。罪はない!と発見され、それを話し本にすると病気は治る、倒産しそうだった会社が繁栄したりとたくさんの体験が出てたくさん人が集まるので、お役人から宗教にしろと言われて宗教になったようです。

 

雅春先生はただ本当の事を皆んなに伝えて幸せになって欲しい為にはじめられた運動ですから、宗教でも何でも良かったようです。!笑!

 

生長の家は万教帰一(ばんきょうきいつ)本当の宗教は皆んな同じであるから、先祖が又今までやっていた宗教を改宗せずに、生命の実相の本を読んでいますと、仏教の方は本当のお釈迦さんの説かれた教えがわかり、キリスト教の方はイエスが説いた本当の真理が理解できるようになると言う事です。

 

本当の宗教の教祖は皆んな人間は神の子仏の子と説かれたようです。罪なし、病なし、迷いなしと説かれたが、しかし弟子達が本当に理解する事ができず、人間は罪の子だから、懺悔しなければならないと説いたようです。

 

ですから「生命の実相」を読んでいくと次第に罪なし、病なしが分かって来て、罪は消え、病は治るという事です。キリストも病に重いも軽いもない病なしです、死んだラザロまで生き返らせています。

 

★今日で「生命の実相第七巻」は終わりです。長い間読んで頂きありがとうございました!後「生命の実相第三巻」を載せて「生命の実相」は終わりにさせて頂きます。四十巻ありますので、ネットで買えますので読んで頂ければと思います。本当にありがとうございました!合掌再拝!