◎ 「生命の実相第七巻」

 

 

 

○ 家庭生活を光明化せよ!

 

 

 

つづき

 

 

 

 

われわれが家庭において、魂の箍(たが)を弛(ゆる)めて、怒りにまかせ、苛立ちにまかせ、吼えたり怒鳴ったりすることを自制しないならば、

 

 

 

われわれはあたかも軌道を踏みはずした天体と同じことで、家庭の他の人々と衝突して、家はあれども、家庭は存在しないと同じことになってしまうのである。

 

 

なんじの家庭の人々が過誤(あやまち)に陥(おちい)るとも、なんじのお説教を止めよ、なんじの怒号を止めよ、なんじの顰(しかめ)面を止めよ。しかしてしずかに「彼の実相」一「本物の彼」を見よ。

 

 

 

未だいかなる過誤(あやまち)をも犯したることなき「神の子」なる良人を見よ、「神の子」なる妻を見よ、「神の子」なる子を見よ。「神性」において彼を見、彼の「神性」を祈り顕(だ)せよ。

 

 

 

「生長の家」のメタフィジカル・ヒーリングにて、肉体の病を癒す原理も同じことである。病気の真っただ中においても病気を見ず、至上の健康状態にある彼の生命の実相を、精神を統一して心の眼底にありありと見るようにするとき、彼の病は消滅するのである。

 

 

 

性格の病気でも行為の病気でも同じことである。それを認めて強調し、「お前はこういう病気を持っているぞ、この病気を恐れよ」と教えるとき、性格の病気(悪癖)でも行為の病気(悪徳)でも増大するのである。

 

 

「これをするな」とどなりつけるよりも、「何々さん、すみませんがこうしてください」と素直に正面から親しく呼びかければ、必ず誰だってそれには反抗しないのである。

 

 

 

家庭の内ではともすれば、家族の名前を呼び捨てにするけれども、それは決して家庭の雰囲気をよくするものではないのである。人間は神の子であって、家族といえども、私的の所有ではない。

 

 

 

家庭は神の子同士が、神の子の生活を実現するための道場なのである。だからどれだけ美しい言葉を使っても美しすぎるということはないのである。この、家庭は神の子の生活を実現するための道場だという根本的態度がきまることが家庭浄化の基礎である。

 

 

 

この基礎がはっきりわかれば、もう家族だからとて、名前を呼びつけにできるものではない。下女でも召使いでも、名前を呼びつけにできるものではない。下女でも召使いでも名前を呼びつけにせられない時には非常に気持がよいものである。

 

 

 

その人の神性が尊ばれるにしたがってその神性が外界にまで開顕してくるからである。息子や娘を善くしてやりたい愛の心だといって、始終大きな声で口ぎたなく罵(ののし)ることは失敗である。それはたとい愛の心があっても、鬼の面を被った愛の心である。

 

 

 

鬼の面を被っている以上は、愛でも相手を恐れさすほかに能力がないのである。なんじの鬼の面をとれよ。そして本物の愛の顔を出させよ。相手は懐(なつ)いて、愛に感じて、善(よろこ)んで善(ぜん)に遷(うつ)ってくれるのである。
 

 

 

たえず小言を言い、たえず怒りを振り撒いて歩き、間断なく人の欠点をさがしつつ、その人を善き人にしてやろうと思うのは「不調和」から「調和」が生まれ出てくるだろうと予想するのとどうような迷信である。

 

 

 

たといこの世の中に瓢箪(ひょうたん)から駒(こま)が生まれ出ようとも、「不調和」から「調和」が生まれてくることはむずかしいのである。諸君がもし諸君の立ち対(む)かう人たちを善ならしめようと欲するならば、自分自身がまず調和した心持ちにならなければならないのである。

 

 

 

自分の心が乱れ、癇癪(かんしゃく)に触(さわ)って相手を鋭い言葉で刺し貫いているようなことで、相手を善に化しうるなどと偉そうなことを考えぬがよいのである。

 

 

 

つづく

 

 

 

谷口雅春著「生命の実相第七巻」 家庭生活を光明化せよ!

 

 

 

☆ いよいよ明日で「生命の実相第七巻」も終わります!これで第一巻、第二巻、第七巻が揃いました。長い間読んで頂き有難うございました。病気だろうが経済問題だろうが子供、夫婦問題だろうが人生問題何があっても大丈夫です。私が言うのではありません!京セラの創業者稲盛和夫さんが自分の本に書いておられます。稲盛和夫さんだけではない経済界、政界、小説家、凡ゆる人が実践して救われておられます。一巻二巻七巻を読んで下さい必ず救われます。寿命でない限りは!後第三巻も掲載する予定です。