◎ 生命の実相第七巻

 

 

 

○ 共通的生命の歓喜のために働け!

 

 

 

つづき

 

 

 

だからわれわれが仕事をする場合には、その仕事に興味を見つけてそれを愛するようにしなければならぬ。

 

 

 

義務でやらされる仕事でも義務でやると思ってはならぬ。義務という観念が、われわれの心の全体を押しつけるならば、どんなおもしろい仕事もつまらなくなる。

 

 

 

子供に体操を課せれば実に嫌々やるものであるが、彼らはキヤツキヤツ,と喜び騒いでその体操と同じ運動を、友だちと遊びながらなら自分で進んでやっていることがあるものである。
 

 

 

田を耕す仕事、これも日常の義務と感じてするとき、われわれの肩に重くかかる。こんな辛い単調な仕事はまたとないように思われてくるのである。それで農村青年は都会へ出たがる。

 

 

 

しかしもし彼らが着眼点を一転して、新鮮な空気を吸う喜び、煤煙をとおさない日光に浴する喜び、大地の万物を生かす生命に触れる喜びに心を向け、

 

 

 

そこに大自然の愛に感謝し、大自然の愛の御業を助けるという農耕の仕事に愛を感じてくるならば、今まで穢い単調な困難な仕事と思っていた農耕の仕事がおもしろくなり、

 

 

 

労苦が労苦とならず、興味があるためにいろいろの工夫や研究もできて、作物の産額も品質も上がるのである。
 

 

 

これはただのー例にすぎないが、あらゆる仕事は義務と思えば重く、愛してこれを行なえば、かえってそれを努めることが楽しみとなるのである。

 

 

われわれが「仕事の歓び」を失わされる原因に二とおりある。

 

 

 

一つ自分の仕事をみずから「欲してとった物」と思わず、「強いて課せられたもの」、「強制されたもの」すなわち「義務」として行なわねばならぬという観念である。

 

 

 

かかる観念がわれわれの心を占領してしまうとき、いかなる愉快な仕事も不快になるのである。
 

 

 

先年金光教(こんこうきょう)の高橋正雄さんが「生(せい)の会」というのをお開きになって、共鳴した方が数日間高橋さんのお宅にまず集まって、

 

 

 

「生きようと自分で力まないでも、なんでも自分の手にあう仕事をさしていただけば、天地の力がひとりでに自分を生かしてくださるものだ」という大事実を体験する修行をなさったことがある。

 

 

 

その修行のうちに、集まった皆さんが町へ出て、どこの家ヘでも頼み込んで、何か手に合う仕事をさせていただくという場面がある。

 

 

 

いわば一燈園の托鉢の修行である。それに出席した人からの手紙に次のような記事がある。
 

 

 

「……良い仕事、手ごろな仕事がありましたれども、させてくださいと言えないのです。その家の前を二、三度も行ききいたしましたがはいることができません。実につろうございました。

 

 

 

かくすること数度、とうとう野原まで出ましたが何もよういたしませまん。それから、車の後押しをさせていただいて町はずれまで来ました。するとー軒の百姓家がありまして忙しくいたしておられますので、何かお手伝いすることありませんかとその家の前まで行きまして、

 

 

 

藁打ちをしておられます家の内をのぞきましたが、口に出ません。そうこういたしておる内に、雷のごときどら声で『こら!!貴様はなんだ。人の家の内ををのぞいて、うろうろいたして、どこの者だ』とどなられました。

 

 

 

わたしは飛び上がって驚きましたが、すぐ相(あい)すみません実は………と話しましたが、貴様らに何ができるかあちらヘ行け、と叱られてほうほうの体でお寺へもどりました。

 

 

 

なんともかとも言えぬ、これまでこんなにつらい思いをいたしたことがありません。それでその夜静かに考えましたが、五日目先生の仕事を求める御注意がありまして、なるほどと思いました。

 

 

 

がそのつらかったことが身に沁みました。それはたんにそれだけでしたが帰宅してみますと、仕事が!あれほどつらい思いをして求めた仕事が、無条件でたくさん目の前にあるではありませんか。

 

 

 

ありがたいという心持で、それが片っぱしからしからできかけました。店ヘ行っても何ほどでも仕事があります。させてくださいとか、どなられることなしに。ありがたいことです。

 

 

 

こんなに尊いお仕事がわたしの付近にたくさんあるにかかわらず、これをせずして他の人の仕事を求めていたしていたことがおもしろく不思議に思えてきます。

 

 

 

それからというものは家の仕事、店の仕事、教会の仕事、他の人の仕事、手あたりしだい、ありがたくさせていただけるようになりました。皆一様の心持ちで落ち着いて。………」

 

 

 

この体験録は、うしなわれていた「仕事の歓び」が、いかにして取り戻されたかということを如実に雄弁に語っているのである。

 

 

 

つづく

 

 

 

谷口雅春著「生命の実相第七巻」 共通的生命の歓喜のためには!

 

 

 

☆ 確かにそうですね!生長の家の道場では、祝福礼拝業という練成会があります。タスキをつけて、一件、一件、訪問して祝福礼拝をさせて頂くのである。私しは営業出身だけどこれほど嫌な事はない!笑!

 

練成が終わって会社に戻り普通の営業をやる事がいかに楽か?笑!

 

しかしこの祝福礼拝業ほど効果があるのはない!笑!体験続出です。終わって道場に帰って今日回った家の体験を発表するのですが、皆さん顔が生き生きと輝いておられますね!色々な体験が出ますね!一度やられたら良いですよ!笑!