◎ 「生命の実相第七巻」

 

 

 

 

○ 断じて失敗を予想せざる者はついに勝つ

 

 

 

 

つづき

 

 

 

 

あまりに警戒心の強い者は何事もなしえないものだ。放胆な、打ちまかした、自己ヘの信頼と、他への信頼と、神への信頼とはついに大衆を指揮して、自分の手足にしてしまうのである。

 

 

 

「多分」と前置語(まえことば)を付して自分の勝利を信ずる者は百パーセント彼の勝利を得るわけにはゆかないのだ。「できるかできぬか試(や)ってみよう」程度の確信ではまだたりない。

 

 

 

「われ必ず能(あた)う」と信ぜよ。「わがことはすでに神の計画のうちで成就せり。神の計画のうちで成就せるものは、否応なしに必ずこの世に出現する」と信ぜよ。

 

 

 

かくのごとき確信の上にたつとき、諸君はことの成就に必要な無限の力がどれだけでも湧き出てくることを感ずるであろう。神の子たる人間は内に無限の力を蔵する。

 

 

 

これを汲み出す方法はこれを認めることにあるのだ。確信と半疑、決断と不決断、勇気と怯懦(きょうだ)、「必ず」と「多分」、「ぜひに」と「あるいは」、

 

 

 

これらのわずかの相異がその人の勝利と敗北、成功と失敗、非凡と平凡、栄光と恥辱とを画することになるのである。

 

 

 

諸君がいやしくもことをなすに当たっては、自分の全力をその仕事に集中せよ。確信は自分の内に宿る無限の力を爆発さす導火線となるのである。

 

 

 

半信半疑の導火線は途中で燻(いぶ)って消えてしまって、ついに内なる無限力を爆発さすことができないのである。げに、信念は人と神とを結びつける導線である。

 

 

 

有限なる人間が無限の神の力に結びつくには、ぜひともこの確信がなくてはならないのである。神の無限力に結びつかないで何事にも大成功を遂げた人はないのである。

 

 

 

常に「われ神と偕にあり」と確信をもっている人こそ神人である。彼こそ真に絶大な実行力を発揮することができるのである。たとえば確信は成功を膨(ふく)らませるパン種である。

 

 

 

十の才能をもっていて確信なきものよりも、五の才能をもっていて確信ある者の方が、その成功は膨れるのである。またたとえば、確信は人を乗せて空中に飛翔せしめる飛行機である。

 

 

 

その高所よりして、彼は確信のない地上の人々には見えない展望を得るのである。飛翔する前に地上が鳥瞰(ちょうかん)できないことを嘆くな。

 

 

 

飛翔するにしたがって地上の展望はしだいに広くひらかれくる。確信をもってグングン押し進めば、進むにしたがって、次になすべきことがわかってくるのである。

 

 

 

おもえ、かのニユーヨーク・パリ間の大西洋横断無着陸飛行を完成したリンドパーク大佐の確信を。彼にとっては「もしや」の準備は決してなかったのである。

 

 

 

彼は「もしや」失敗したときには、ラジオで救助を乞おうなどとは思わなかったに相異ない。その証拠に彼は機上にラジオ装置さえ設けなかった。

 

 

 

単身、まっしぐらに、ただゆく、ただゆく、彼にとってはゆくのみであったのだ。万ーの失敗をさえ予想しない大確信が、ついに大佐を大西洋の彼方ヘ運んでいったのであった。

 

 

 

おもえ、またタコマ号にて大西洋を横断せんとして失敗したるブロムリー中尉を。彼は試験飛行に試験飛行をかさねて万ーの準備に余念がなかった。

 

 

 

彼は青森県淋代飛行場を出発して、実に二十数時問飛翔を続けたのであった。しかも臆病な彼はラジオで救助ばかりを呼んでいた。そして二十数時間の長飛行の後、彼が着陸した所はやはり青森県の一村落であったのだ。

 

 

 

彼はタコマ市目ざして飛ぶという目的に自信がもてず、途中で引き返して青森目ざして飛んでいた。彼は前進するかわりに後退していたのだ。

 

 

 

もし彼がこの反対に二十数時間の長時間を、前進、前進、ただまっしぐらに前進していたならば、たとい中途で不時着の必要が起こったにせよ、コースの大半を突破して記録に残すにたるだけの成績をあげえていたに相違ないのである。

 

 

 

またそれほどの勇気と確信とがありさえすれば、彼は完全に全コースを翔破しえていたに相違ないのである。

 

 

 

なぜなら目的に向かってただ前進するほかに、決して後退することを知らぬ自信は、ついに他(ひと)の不可能とすることを可能に変じてしまうものだからである。

 

 

 

 

つづく

 

 

 

 

谷口雅春著「生命の実相第七巻」 断じて失敗を予想せざる者はついに勝つ!

 

 

 

 

 

☆ ユニセフの調査で精神的幸福度が日本は下位のようである。精神的幸福度というのは心で感じるもので、唯物論的発想であの車が欲しい、あんな家が欲しいと、他人と比べて物を欲しがっているとそこには、欲しい、欲しいの欲張る心で心が貧しくなりますので、幸福とは言えないでしょう!

 

又以前北欧だったと思いますが福祉国家で自殺率がトップだったが、谷口雅春先生はすべてがそろっているとそこには夢や希望がないと言うような事書いておられましたね!

 

以前ブログにも書いたと思いますが、何不自由ない王子様が喜ばないそれで王子を喜ばした者は褒美をとらせると言って、来たのが魔法使い、炙り紙を王子に渡して消えますが、その紙をローソクであぶると「一日に一回は深切を与えよ」という事が書いてあった!

 

人に喜びを与えるという事です。和顔、愛語、讃嘆(わがん、あいご、さんたん)笑顔を優しい言葉、ほめる事を探してほめる。松下電気(パナソニック)の創業者松下幸之助さんが叱るところをほめるところを探してほめたようですね!

 

 

★  因みに生長の家の教育法は!

 

1.子供はみな天才である

 

この教育法は、すべての子供の中に無限の可能性(神性・仏性)を認め、子供を天才と観る教育法です。それぞれの個性が違うところに価値があることを認め、子供の天分を生かします。

 

 

2.善きコトバで子供の本来の力を引き出す

 

コトバには創造力があり、ダイヤモンドの原石を磨くように善き言葉は子供のいのちを光輝かせる力があります。認めるコトバ、褒めるコトバ、愛のコトバ、感謝のコトバ等によって子供本来の力を引き出し優良児を育てます。

 

 

3.子供の“今”を生かし、発達段階に応じて愛情を注ぐ

 

生命は伸びる性質があり、子供の躍動する内部生命は常に湧出のチャンスを待っています。この教育法は、子供の内に芽生え伸びようとする“今”を的確に捉え、発達段階に応じた方法でやる気を引き出します。

 

 

4.地域を愛し、日本と世界に貢献する人材を養成する

 

父母・家族、先生、友達など、周囲の人々や先祖への感謝の大切さを伝える中で、秩序を尊ぶ豊かな人間性と社会性を醸成し、地域を愛し、日本と世界に貢献する明るい子供を養成します。