◎「生命の実相第七巻」

 

 

 

 

○ 常に心に善念を把持せよ

 

 

 

 

つづく

 

 

 

 

 

実際、思想も人格もコトバ(波動的存在)であるから、それはエーテル波(光やラジオの波)のように放射して、それ自身がなんであるかを無言のコトバで語るのである。

 

 

 

竪琴(たてごと)は竪琴の音を出すほかはないし、ピアノはピアノの音を出すほかはない。そして破三味線(やれじゃみせん)は破三味線の音を出すほかはないのである。

 

 

 

善き音を出すには、自分自身から出るリズムを浄めなければならないのである。いったいわれわれは、自分自身をあまりに大切にしなさすぎはしないか。

 

 

 

自分自身を汚くあるいは小さくしておきながら、ひとに対して綺麗に、あるいは偉(おお)きく見せようと努力するのは、ひとに善い感じを与えさえすれば、自分自身の本質は、本当に汚くても小さくてもよいという慈悲心でもあるのであろうか。

 

 

 

何よりも大切なのは自分自身の本質ではないか。本質を善くすること、本質を偉大にすること、そこから放射される波動によっておのずから周囲から集まって来る好意や、そうしたものに養われるのが「生長の家」の生活であるのだ。

 

 

 

相手がどんなふうに自分のことを思っているか―彼が敵であるか味方であるかは、彼の全人格から放射されて来る感じでわかるものである。

 

 

 

彼がたとへ蝶々(ちょうちょう)として愉快な御機嫌とりの言葉でさわがしく喋(しゃべ)るとも、彼が反感や敵意をもっているときには言葉と言葉の間でわかるのである。

 

 

 

相手が言葉を発しているあいだは、言葉の波動で彼の「全人」から来る感じをかきみだしているので、一時は彼の「全人」がなんであるかがわからないこともあろうが、彼が言葉をやめるとき、そこにはただ彼の「全人」から放射される感じだけが偽りなく受け取れるのである。

 

 

 

だから自分の「全人」を相手の前で隠している人は、沈黙を非常におそれるものである。相手に対する悪意や敵意をおし隠してしいる人は、もちろん

 

 

 

この沈黙をおそれるし、恋する人がその恋愛を押しかくしている場合やすべて心に秘密をもっている場合には、この沈黙を非常におそれるのである。

 

 

 

互いに沈黙のうちに温かい愛情の言葉を心で交わせうる人々こそ、本当に何事も押し隠していない「全人」を打ち明けた人々であるのだ。

 

 

 

しかし沈黙の恐怖が起こるのは、必ずしもその人の「全人」が卑しい場合ではない。それはただその「全人」を看破られたくない場合に起こるのであるが、

 

 

 

それよりも、もっと悪いのは、全人が完全に醜悪であり低卑である場合にその人から放射される醜悪な低卑な感じである。

 

 

 

よく人は「あいつの顔を見ると、とても堪(たま)らぬ。ムシズが走るような気がする」とある人のことを批評することがあるのがそれである。それでいてその人だって全力を出して自分の好印象を相手に与えようとしているのである。

 

 

 

諸君よ、われらは顔を見るだけでムシズの走る感じのするような種類の人間にはなりたくないものである。そのアベコベに、どんなにしていてさえもなんとなしに親しめる、心の許せる、信頼できる「全人」となろうではないか。

 

 

 

家庭においても、事務所においても、工場においても、いやしくもわれわれが社会人として人に接触する場合には、この「全人」からたちのぽる空気、「全人」としての見えない思想の放散が大いなる仕事をするのである。

 

 

 

就職難だとか冗員淘汰だとか言っても、このの「全人」から明るい、信頼できる、親しめる、自信の強い空気を放散する場合には、世に処して決して恐るるところはないのである。

 

 

 

諸君はたったー日の間にでも、他(ひと)に対して嫌悪の感をいくたびもったであろうか。諸君はいくたび他人(ひと)に怒ったであろか。

 

 

 

諸君はいくたび他人に対して眉をひそめたであろうか、諸君がもし毎日これらのことをしなければ幸いである。諸君はきっとあたたかい空気を、自分の「全人」から発散させているに相違ないのである。

 

 

 

ああ諸君よ、他の悪にとらわれるな。諸君は自分を築かねばならぬ。諸君は自分を浄めねばならぬ。たとい他が自分に対して憎むベきことをしようとも、諸君はその人を憎むよりも大切なことをしなければならぬのだ。

 

 

 

それは自分の「全人」を築くということである。自分の「全人」から奏で出(い)ずる波動を傑作とすることである。自分の「全人」の奏で出ずる調律を、「愛と調和」と題する善き曲調(しらべ)にすることである。

 

 

 

 

 

つづく

 

 

 

 

谷口雅春著「生命の実相第七巻」 常に心に善念を把持せよ!

 

 

 

 

 

 

 

☆現憲法は安全のみならず生存までも"他国民まかせ”

 

 

憲法で一番問題とされているのは、第九条の"戦争の放棄"である。それには次のように書かれている。「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求(ききゅう)し、国権の発働たる戦争と、武力による威嚇又は武カの行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

 

前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」この条項に書かれている「国権の発動たる戦争」「武カによる威嚇」「武力の行使」を放棄するのは、「国際紛争を解決する手段としては」であって、

 

「国家防衛の手段としては」放棄するのではないという解釈で、今の自衛隊ができているのであり、「陸海空軍その他の戦力はごれを保持しない。

 

国の交戦権はこれを認めない」とあるのは、「前項の目的を達するため」と示されている通り「国際紛争を解決する手段としては」陸海空軍をもたず、また国の交戦権はみとめないのであって、

 

「自衛のためならば陸海空軍はもってよいし、国の交戦権もあるのだ」ということになっていて、自衛のため.ならば核兵器をもってもよいというふうに拡大解釈される方向に進みつつあるのである。

 

だからこの"戦争放棄"の条項は、ぜひとも改正しなくとも自衛隊や国防軍をもつことができないわけではないから、この第九条の戦争放棄のみが問題であるならば、日本国憲法の改正を必要とする必須の問題ではないのである。

 

それよりも重大なのは、この"戦争放棄"の条項のさらに背景になっているところのこの憲法の前文であるすなわち、「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とある点である。

 

「われらの安全」だけではなく「生存」までも、平和を愛する他国の国民の公正と信義に信頼して、それに頼って保持するのであって、自分の力によっては自分の生存さえも、守ろうとはしませんと決意したというのである。

 

しかし、そんな公正と信義を有する隣国はどこにも見当らないのである。

 

 

 谷口雅春著 「私の日本憲法論」より

 

 

 

 

★ 今でこそ。北朝鮮、に中国、ロシア、韓国まで何をするかわからない国であるとほとんどの国民は思っているだろう!しかしつい数十年前までは社会党の党首土井たかこ氏は、北朝鮮が拉致している疑惑が出た時あんな良い北朝鮮が拉致するわけない!と国会で発言したのである。

 

今、現憲法改正に反対するのは、北朝鮮、中国、ロシア、韓国であろう!野党にマスメディアはかの国が喜ぶ事に協力している事になるのである。