◎ すべてを癒やす道

 

 

 

○ 母親と祖母が連れてきた唖(おし)の子 

 

 

 

ある朝のこと、玄関の戸が開く音がして、「ごめん下さい、ごめん下さい」という声がしますので出てみますと、年のころ五十五、六歳くらいの女の人と二十六、七歳くらいの女の人と男の子と三人づれで立っておられます。

 

 

 

「どなたさまですか」とお尋ねしますと、「私達は○○の者でございます。朝早くからまことにすみませんが、先生にお願いがあってまいりました」と言われるので座敷に通しあらためてきいてみますと、その二人は男の子の母親と祖母ちゃんであることがわかりました。

 

 

 

おばあちゃんの言うには、「この子は私の孫でございます。今七つになりますが、どういうものか、ものが言えないのです。

 

本当なら今年小学校にあげなければならないのですが、唖(おし)のため普通の学校に入れないので、唖の学校に入れなければなりませんが、なにぶんにも幼いので手放すのも心配で困っておりましたところ、

 

ご近所の奥さんが、藤原先生のところに行って相談してみたらとすすめて下さいますので、思いきってつれてきました」というわけです。

 

 

 

要するにその唖を私に治せと言うのであります。

 

 

 

普通の人でありましたら、「冗談いうな」というところですが、私は、尊師谷口雅春先生から「人間は神の子であるから不完全な者など一人もいない」という尊い真理を教えいただいておりますので、そんな唖などは断じておらないと信じております。

 

 

 

「ああ、そうですか。唖はおりませんよ」と言いました。

 

 

 

お祖母ちゃんは、「先生、この子は唖なんですよ。私が朝から晩まで『婆(ババ)言え、婆言え』と言ってもなにも言わないのです。お菓子をあたえては『マンマ言え』と言っても全然なにも言わないのです」というのです。

 

 

 

「それは言えないようにしているものがあるからですよ」と言って諄々と話してあげました。人間は肉体ではない、生命であるということ。

 

 

 

その生命が神の生命であり、自分の孫でも子でもない、神さまからの授かりものであり、お預かりしている神の子である―ということをよく話してあげ、

 

 

 

「神さまだから、唖の神さまなんかありませんよ。ちゃんとものを言っているけれども止めているものがあるから、言えないような姿に現われているだけなのですよ」と言って、

 

 

 

この世界はすべて心に思っていることが形に現われているので、みんな心の影であることを話しました。 

 

 

 

「このお子さんがもの言えないのは、言ってはいけないという心の影が唖という姿になっているのです。あなたたち、きっと他人に言えない秘密をもっているのでしょう。

 

 

 

このことばかりは人に言えないという隠しごとが原因となって、かわいそうに言いたくても言えない唖となってこの子に現われているのです。

 

 

 

ですから、私に何でも白状しなさい。打ち明けてしまいなさい。言ってよいことと悪いことぐらいは私はちゃんと心得ていますよ。秘密は絶対に守りますから」と申しますと、子供を救いたい一心でポツポツと話し出したのであります。

 

 

 

 

つづく

 

 

 

藤原敏之 著 「すべてを癒す道」より

 

 

 

 

 

 

※ お医者さんにかかっても治らない?色々やったが治らないという人は先祖供養すると治る方が多いですね!特に家系に癌とか同じ病気の人がある時はその人を供養してあげますと治る場合が多いですね!先祖供養のやり方は当ブログの「先祖供養」を見て頂ければと思います。

 

 

◉ 先祖供養の意義

 

 

第一義的には、

 

人間は神の子である。神の子はそれ自身で完たい外から何物かを付け加えてもらうことによって初めて完全になるようなものではない。 ― これが第一義的真理である。

 

神の子たる人間の霊が外からお宮を付け加えてもらわないと霊界の生活に困るようではそれは宮と言う迷いに捉われているのである。

 

お宮を建ててもらわねば霊界の生活に都合悪いとか、お堂をたててもらわねば霊界の生活に都合が悪いとかいうのでは、その霊は神性の自覚が足りないのである。それで、神性を自覚した霊にとってはどんな形式によっても祀ってもらう必要はないのである。

 

 

 

第二義的には

 

未だ悟りの境地に達していないで、肉体的自覚を脱し切っていない霊魂は習慣的に空腹の感じを催し、餓鬼道的に苦しむ者もあるので、応病与薬的に「食を欲するものには食を与え、薬を欲するものには薬を与え」という訳で、宮を欲するものには宮を与え、仏壇を欲するものには、仏壇を与えてこれを供養して誠をつくすことが、これが先祖に対する道となってくるのである。

 

従って祖先が仏教で続いて来た家系の霊を祀るには仏教的儀礼に則るがよいのである。