47   甘露の法雨講義  (完)

 

 

 

○ 人間の実相および仮想

 

 

 

☆昨日の終わり

 

 

キリスがあのような奇跡を演じえたのは心の力を発揮しえたからでありますが、どうしたら心の力が発揮できるかというというと一つは精神統一によって心の力を訓練すること、

 

一つには、物質の実在を否定して肉眼に見える世界はただ心の影であって、この肉体も心の影であるから、自分の心によってどうにでもなると観ずることなのであります。

 

物質を確たる実在であると観(み)れば観るほどわれわれの心の力は物質に負けてしまうのであります。

 

物質を無しとし本当の自分とは、滅びなき、久遠(くおん)生きとおしの生命であり、自由自在に物質を駆使することができるのだと悟ったときわれわれは完全に物質を支配することができるのであります。

 

 

 

 

 

つづき

 

 

 

 

人間の眞性(しんせい)は先ず霊なる生命にして

 

心の絲(いと)を組み合わせて肉体の繭(まゆ)を造り

 

その繭の中にわれとわが霊を宿らせて、

 

はじめて霊は肉体となるなり。

 

汝ら明らかに知れ、繭は蚕(かいこ)に非(あら)ず

 

然(しか)らば肉体は人間に非ずして、

 

人間の繭(まゆ)に過ぎざるなり。

 

時(とき)来たらば蚕が繭を食(く)ひ破(やぶ)って羽化登仙(うかとうせん)するが如(ごと)く、

 

人間もまた肉体の繭を食ひ破って霊界に昇天せん。

 

汝ら決して肉体の死滅をもって人間の死となす勿(なか)れ。

 

人間は生命なるが故に常に死を知らず。

 

想念(こころ)に従(したが)い

 

時に従い

 

必要に従ひて

 

肉体と境遇(きょうぐう)とに様々(さまざま)の状態を顕(あらわ)せども、

 

生命そのものは病(やむ)に非ず、

 

生命そのものは死するに非ず、

 

想念(こころ)を変ふることによって

 

よく汝らの健康と境遇とを変ふること自在なり。

 

されど汝ら、

 

つひに生命は肉体の繭(まゆ)を必要とせざる時到らん。

 

かくの如きとき、

 

生命は肉体の繭(まゆ)を食ひ破って

 

一層自在の境地に天翔(あまかけ)らん。

 

これをもって人間の死となすなかれ。

 

人間の本體(ほんたい)は生命なるが故に

 

常に死することあらざるなり。

 

かく天使語(てんのつかいかた)り給(たま)ふとき、

 

虚空(こくう)には微妙の天楽(てんがく)の声聞こえ

 

葩(はなびら)は何處(いずこ)よりともなく雨ふりて、

 

天の使い説き給へる真理をば

 

さながらたたふるものの如くなりき。

 

 

 

 

 

さてわれわれの肉体はどうしてできたかと申しますと、われわれの個生命は母親の母胎(ぼたい)を縁(えん)としてそこに念力(ねんりき)を集中し、念の放射をさながら蚕が糸を吐いて繭(まゆ)を作るがごとくに放射し、蓄積しますとまず念の放射の糸によって霊体が作られる。

 

 

 

(それをわたしはかつて霊元素でまず念体が造られるといって、言い表わしたことがあります)この霊元素、すなわち念の糸によって造らられた霊体が今度はさらに物質的バイブレーションを集成してそこに物質の体すなわち肉体ができるのであります。

 

 

 

霊体の念波は最初母親の子宮の中の卵子の中に振動を与えて、念波によって物質分子を集成し、四ヵ月、五ヵ月とたって物質の体の建設が進むにつれて、その霊体は肉体と一つになりはじめ、次第に念波の糸によってその母胎内に肉体を完全に綴(つづ)り合わせ、その肉体のうちに霊を宿らせ、それで十ヵ月たった時に人間となって出て来るということになるのであります。

 

 

 

けれどもこれは実相の人間のことではないので、念の影として、いかに念波が肉体の人間を作るかを説明したのであります。

 

 

 

このように肉体というのは、霊体を宿らせている繭(まゆ)であるのですから、繭はあくまでも蛹(さなぎ)ではない。時が経てば繭の中からは蛹(さなぎ)が蛾(が)になって飛び去ってしまう。

 

 

 

その時繭(まゆ)と蛹(さなぎ)は二分して、繭はただ、脱けがらとなって残されるのです。

 

 

 

繭とはすなわち霊体の念波によって物質的バイブレーションを集成して組成した肉の体であって、その繭の中にある蛹(さなぎ)、そのものが霊体にあたるわけであります。

 

 

 

ですからわれわれの本尊(ほんぞん)は、この肉体ではなくむしろ肉体に宿る蛹、すなわち霊体であるのです。

 

 

 

がしかし、繭の中の蛹だとて結局滅するものであることを忘れてはならない。

 

 

 

それと同じことで霊体と言うものも(この念波の体なる霊体を普通「霊魂」と言うのですが)これも常住のものではないので、それもまた、念のバイブレーションによって成っているものでありますから、念の波動に従って、常に変化しているものなのであります。

 

 

 

そして変化するたびにそれは精化(リフアイン)されてしだいしだいに高級なものとなってゆくのです。蛹は時がたてば蛾(が)となって繭を飛び立ち、やがては卵をうみつけて自分は死んでしまう。

 

 

 

霊体も時がたてば、みずからの造った肉体の繭を食い破って霊界に昇天しまうのですけれども、それをもって霊体を常住不滅なりとなすことはできない。

 

 

 

なぜならそれは念の影であるからであります。不滅なるものは、肉体ではもちろんない、また肉の体を組成した霊体でもない。その奥にあるわれわれの生命の実相、その「実相(じっそう)」だけが久遠常住(くおんじょうじゅ)、永遠不滅(えいえんふめつ)のものであります。

 

 

 

人間の本体は肉体でない、また霊体でない、その、もーつ奥の、永遠不滅の生命そのものであることを知らなければならないのであります。

 

 

 

霧の深い深い晩、ガス燈がーつ灯っています。ガス燈の周囲を見ると、ぼーっと明るい光の輪ができている。―それはーつのガス燈から発する無数の光線を、霧がその濃度に従って現わしたものであります。

 

 

 

その光の輪が霊体(れいたい)にあたり、霧は念(ねん)、そして、中心の光がすなわち本当の自分、久遠生きとおしの生命にあたるわけであります。

 

 

 

光暈(くま)は、霧の濃度によって常に変化を起こしているものですから常住不滅のものではない、しかしいくら暈(くま)が変わろうと中心である光は、いつも変わらずに照り輝いているのです。

 

 

 

要するに体というのは肉体にせよ、霊体にせよ、霧に反映している光の周囲の輪と同じようなもので、念の波によって常に変化を起こしている常住のものではないのであります。

 

 

 

光の暈(くま)は常に変化はするけれども、そこに霧がある限り光の周囲には必ず暈(くま)ができている、

 

 

 

と同じように念の存続する限り個性の体(たい)(霊体肉体を含む)の存続もあるわけで、ただそれは常に変化し、

 

 

 

変化する都度洗練されてゆくので、リファインされつつ存続しているうちに、追々透明(おいおいとうめい)な念に進化していって、

 

 

 

まったく透明になった中心の光をそのまま映し出すげすことができるようになる。

 

 

 

その時こそ実相そのままの自分がここに顕現(けんげん)するということになるのであります。

 

 

 

 

 

 

甘露の法雨講義   〈完〉

 

 

 

 

 

☆今日で甘露の法雨講義は終わりです。

 

以前も書きましたが、これは谷口雅春先生は詩として「生命の実相」の本に掲載されたものですが、京都支部の工学博士がこれを読まれてこれは詩などではない!

 

お経だという事で、この部分だけお経の本のように作られて京都の支部で販売されたら奇跡が続出して、雅春先生に版権を返されて、先生はあまりに詩が長いので、二つに分けられて一つは「甘露の法雨」と表題をつけられて、一つは「天使の言葉」とつけられて折本にして聖経として販売されるようになったという事です。

 

聖経の奇跡はたくさんありますが、戦時中広島に原子爆弾が落とされましたが、その時原子爆弾の下で上半身裸で測量をやっていた信徒さんが原子爆弾で吹き飛ばされて気がついたらお守りとして見につけていた聖経甘露の法雨が体にぐるぐる巻きに巻いていて、何処にもけが一つなく元気で過ごされたという事です。

 

火に焼けないと書いてありますが、原子爆弾にも負けなかったという事でしょう!笑!

 

明日は甘露の法雨のお経をそのまま掲載しますので、それをコピーして、病人の枕元で読んで聞かせたり、御仏壇にあげられたり、又時間がある時読まれると「生命の実相」全巻が凝縮されていますので、効き目あらたかですよ!笑!神を試してはならないと書いてありますので、私しの失言です!笑!