38・甘露の法雨講義

 

 

人間の実相および仮想

 

 

 

昨日の最後のところです。

 

 

 

愛ばかりあっても片輪ですし、また智慧ばかりあっても跛(ちんば)なのです。

 

だから極楽浄土(ごくらくじょうど)には、慈悲の象徴たる観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)と、知恵の象徴たる勢至菩薩(せいしのさつ)とが阿弥陀様(あみださま)の左右に在(いま)してその三体が一つとなって、一つの働きを為し給うことを顕わしている。このように、智慧と愛とは別々にあるぺきものではなく、両々相俟(あいま)って一つの完全な働きを為すものであります。

 

 

 

 

 

 

つづき

 

 

 

 

 

次に「霊は物質の性質に非ず、愛は物質の性に非ず、知恵は物質の性に非ず」ということがあります。

 

 

 

先刻申しましたように仏教ではこの霊という言葉は使いません。仏教では霊魂は無いと言われる。霊魂とは言わない代わりに「有(う)」という字を使うのです。

 

 

 

三界を分かって二十五有に分類したりしている。この「有」というのがいわゆる霊魂でありまして、それは第一義実相的の存在ではない。仮現(かげん)としての存在なのであります。

 

 

 

第一義実相では人間は迷うことはないが、仮現としての人間は迷うて、仮存在として輪廻転生(りんねてんしょう)するのです。

 

 

 

われわれの肉体すなわち色身(しきしん)が滅して、まだ後来(こうらい)の生(せい)が二十五有の、うちのどの「有」の境涯(きょうがい)に定(きま)るか分からない間の存在を中有(ちゆうう)と言うのです。

 

 

 

よく「魂が中有に迷う」などと言う。これは仏教では普通肉体の死後四十九日間ということになっている。この中有としての存在が満了すると、満中陰(まんちゅういん)と言って、何かお葬(とむら)いのお供(そな)えの返しなどをするのであります。

 

 

 

だから「言葉」が異(ちが)うといって、ただちに仏教では霊魂を認めないといって争うのはまちがいです。しかしここにある霊とは先刻申しました「不可思議自由自在なもの」という意味を現わすために霊という字を使ってあるのです。

 

 

 

生命の実相(ほんとうのすがた)は、実に、霊妙なものでありますから、霊妙不可思議の妙という字にあてはめてもいいのであります。

 

 

 

『法華経』では「妙(みょう)」という字を使っている。霊々妙々(れいれいみょうみょう)不可思議なる生命の働きは、一定の化学反応しか起こさないような物質の性能だけでは得られるものではないのであります。

 

 

 

それがこのー節に書いてあるのです。この霊妙不可思議な働きは物質から来るのではない、愛というような不思議な生命を生かす働き、知恵というような不可思議な心の働き、こんな霊妙な働きは、物質から来るものではない。

 

 

 

だから「霊は物質の性に非ず、愛は物質の性に非ず、知恵は物質の性に非ず」なのです。

 

 

 

生命の霊性、愛、知恵というものは、いかなる大科学者がいかなる装置で物質を捏(こ)ねあわしても発現するものではない。

 

 

 

生命は霊なる知恵なる神からのみ来るのであります。この神から来た生命の霊性が現象世界に投影したのが、現象生命である。

 

 

 

この現象生命はどういう状態で現象界に存在に入るかというと一つのバイブレーションとして存在するのであります。このバイブレーションを客観的に観察すると一つの念体である。霊魂または霊体というのはこれであります。

 

 

 

物質は実相宇宙の投影が認識作用によってその霊妙性を捨象(しゃしょう)されて生じたバイブレーションの体でありますが、この物質の体に、現象生命の体が複合して、肉体人間として現われているのであります。

 

 

 

だから人間は大別(たいべつ)すると二種の体が重複しているのであります。われわれは体が一つしかないと思っていますが、肉体と霊体とが重なり合ってーつに見えているのであります。

 

 

 

太陽が七色のバイブレーションが集まって一つの無色の光線になっているのと同じように、われわれはこの肉体という物質的波動の体の他に、霊体的波動というものが一緒に複合して一つに現われているのです。

 

 

 

それがあるが期間たつと物質的波動の体と、霊的波動の体との分離せねばならぬ時期が来るのです。そして霊的波動の体だけが霊界に盛夏する。これが霊魂であります。

 

 

 

実相生命の投影が、霊魂という現象生命の波動体として現象界に現われた時には、実相の無限次元の性質が、時間空間という五官的認識機能のスクリーンによって縦横厚みだけを残して捨象されているので、縦横厚みの立体空間の世界においては、われと彼との区別がハッキリしているので、実相、自他一体の実相が蔽い隠されており、その差別智から、いろいろ実相ならざる念を起こし、その念が蓄積されて業となるのであります。

 

 

 

 

 

つづく

 

 

 

 

☆ 凄いですね!今日のところ一生懸命分かろうと読むと頭が混乱します。笑!雅春先生が摩訶不思議な霊と現象との違いと現象とを我々に分かるように説明してありますが、ここは今度もう一度クリーンな頭で挑戦したいと思います。笑!

 

私しは一度肉体と自分が分離した事がありますので、その感覚がまだありますので、物凄くわかるのと自分でもわかっているのかどうなのかハッキリしていないので、医学博士の徳久先生が赤鉛筆で線を引きながら読むと最後はすべてに赤線を引く事になります。と言われるように今まだわかっていないのだと思います!笑!

 

雅春先生は早稲田大学の特待生で教科書を一度見ると全部が頭にあるので試験はすべて100点ですって!笑!英文は原語で読まれるのでイギリスの宗教書からも翻訳されています。それに個人指導される時などその方の玄関が何処にあってこうなっていますねと書いてあるので霊感でお分かりになるようですね!

 

雅春先生が書いておられますが、霊感で透視される方がありますが、すべてが見えるのではなく一つだけ見えるようですね!胃の中が見える人は今日はご飯と豆腐のお味噌汁食べて来たなみたいに!笑!一つが見えるからとすべてがわかる訳ではないようですので信用してしまうと悪い人にあうと大変な目にあうようです!ご注意を!