36・甘露の法雨講義

 

 

 

人間の実相および仮想

 

 

 

 

昨日のところです!

 

 

実相としてのわれわれ神人(しんじん)と本源唯一(ほんげんゆいつ)の神との関係はちょうど、日光と日光を発する太陽とのような関係である。光のない光の源(みなもと)はあるはずがないと同時に光があればそれには、必ず源があるのであって、源のない光もあるはずがない。要するに光と光の源とは離すことのできない一つのものであって、神という光の源を知れば、それから出た人間も光であり光源である神と、光である人間と本来一つであって、決して別々なものではないことが分かるのであります。

 

 

 

 

 

つづき

 

 

 

仏教では「霊」という言葉を使いませんが、神道やキリスト教では「霊」という字をよく使います。

 

 

 

仏教では「霊魂」というものを否定てしまっていますので、「霊」という字を特に嫌う方があります。しかし、この「霊」というのは「物質を超越した」「物質に障礙(しょうげ)せられぬ」「自由自在な」「不可思議な」「無礙(むげ)な」というような意味をもっているので、必ずしも霊魂のことではありません。

 

 

 

幽霊などでも、閉め切っておいても、無礙に不思議に室内へ闖入(ちんにゅう)して来るというので、霊妙不可思議なので幽霊と言うのです。

 

 

 

「霊の光」という言葉が嫌いならば、不可思議光とか無礙光(むげこう)とか言えば仏教徒に喜ばれるでありましょう。同じことを指しながら、言葉で争うのはみっともよいことではありません。

 

 

 

さてここに、「神は愛なるが故に人間も亦愛なるなり」という言葉があります。神は愛でありますから、神より出でた人間も愛であるというのであります。

 

 

 

ここにもまた「愛」という言葉は、仏教の方では執着の意味に使い善い方の意味ではあまり使わないで、仏教経典のうちでは「慈悲」という言葉で、愛ということを言いうことを言い現しわしているようであります。

 

 

 

しかし、二、三日前、わたしが仏典を拓いて見ていました時に、『涅槃経(ねはんきょう)』の中に、「法愛」という言葉を見出だしたのであります。この「法愛」が要するに本当の神の愛、実相の愛ということであって、実相の愛とは、すなわち自他一体の愛であります。

 

 

 

愛というのはすベて他と自分とが本来一つであると観ずることです。たとえば、親が子供を愛するというのでも、子供とわれとはー体であると自覚することから起こるのでありますし、あるいはある男性が女性を愛するというのでも、わたしはあの人とー体である。あるいはー体になりたいという念を持つことなのであります。

 

 

 

ところがこの愛が一人と一人というように、少ない範囲に凝り固まってしまったときに、それは「執愛」になってしまって、「本愛」にはならない。

 

 

 

ではどういうのが「法愛」であるかといえば、何にも執しないで、天地の流れそのままに、自由自在に愛すること、これすなわち「法愛」でありまして、何かに執する愛は自在ではないから「法愛」ではないのであります。

 

 

 

「執愛」でも愛には違いないのですけれど、それは捉われている愛でありますから、それでは、あらゆる時にすべての人を生かす力は出て来ないのであります。

 

 

 

自由自在にあらゆる物を千変万化(せんぺんばんか)しながら、その実相を生かす。これが法愛であり、神の愛であります。

 

 

 

施(ほどこ)しをするのでも執着の施しと法施(ほうせ)とがある。

 

 

 

執着の施しは誰々には何々をやりたいが、誰々には何々をやりたくないというような、人に物に凝り固まった偏寄った愛であります。人に物に偏寄らないでー様に実相を生かすのが法施(ほうせ)であります。

 

 

 

先刻、「道の道たるは道に非ず」ということを申しましたが、ここでは「愛の愛たるは愛に非ず」ということも言えるのであります。

 

 

 

ただ子供がかわいいからいたわるというのは盲目的な親の愛で、かえって愛するがゆえに愛するわが子を害している場合も多々あるのであります。

 

 

 

なぜ愛するがゆえにかえって愛する者を害するなどということになるかといえばその愛が執愛であるからで、愛とはやたらにいたわりかわいがることだという一本のレールの上乗ってしまっているから、その一本道のほか融通がきかない、そのためにせっかく愛しながらかえって愛する者を生かすことができないということになるのであって、それは法愛ではない。

 

 

 

法愛というのは無軌道電車みたいなもので、レールははずれても決してひっくり返らないで平気で走って行けるような自由自在な愛になって、はじめて相手を生かすこともできるようになるのであります。

 

 

 

 

つづく

 

 

 

 

☆ 霊という言葉が書いてありますので、霊界というのは高級霊から低級霊まで段階があり、ハッキリ区別されているようです。

 

例えば西部劇に出て来るガンマン同士の決闘、お互い撃ち合い弾があたって死ぬとします。霊界では肉体はありませんので、撃たれて倒れても直ぐ起きて又撃ち合いをする、こういう事を繰り返すうちにバカバカしくなって、次の霊界へ進むようです!笑!

 

又同じ段階の霊魂同士ですので、ある婦人は綺麗なドレス着てほめてもらいたくまちを歩くがすべての婦人がほめて欲しい人ばかりで、ほめてくれる人はいない、その内バカバカしくなり、次の霊界へ進むとなる見たいです。

 

しかし地球は高い霊魂と低い霊魂が一緒に生活しているようです。ここに魂を磨くに最適な環境があるようです。戦争中でも低級霊は残忍な殺し方をするようですし、高級霊は敵の船を沈めてもいつ攻撃されるかわからないのに溺れている敵の水兵を助ける見たいな方もおられます。

 

愛のお勉強の為に地球に人間は生まれるようです。その愛が段階があり執着の愛から法愛まであるようです。

 

雅春先生は霊界があると言うことを知るくらいで、霊界の事は霊界に行って勉強して下さい!と書いてあります。

 

霊界というところは摩訶不思議なところで下手に触るととんでもない事になりますと書いてあります。神と話ししたいと祈っていると霊の子だぬきみたいなのが出て来て私が神だと言って二〜三日先ぐらいまでの事を貴方はこうなると言ってあてるようです。子だぬきだって二〜三日先ぐらいわかるようです。

 

人間はそれが当たるものだからすっかり信用して神だと名のる子だぬきのいう通りにして行くと、競馬とか賭け事で最初いう通りに買って行くと当たるものだから、つい信用して借金してここ一番大博打ちをやると外れて財産無くしして路頭に迷うはめになるようです!笑!

 

子だぬきは人間がいう通りになるのを見てからかって面白がるようです。笑!という事で霊界とつながりたいとか神様を見たいとか思わない方がいいようですよ!

 

大調和の神示の中に………われは霊媒に憑(かか)らぬ、神を霊媒に招(よ)んでみて神が来ると思ってはならぬ。われを招ばんとすれば天地すべてのものと和解してわれを招べ………と書いてあります。