34・甘露の法雨講義

 

 

 

○ 人間の実相および仮想

 

 

 

☆ 昨日の項です。

 

 

「吾れは道なり、吾が言葉を行なうものは道にそむかず」とある。この道というのは天地に充ち満ちて欠くるところなきものであります。老子は「道の道たるは道に非ず」ということを言っている。それはどういうことかと言いますと、たとえば「嘘をつく勿(なか)れ」ということがある。この嘘をつかないということもーつの道であります。嘘をつかないということは正しいことに違いあーません。けれども「嘘をつく勿れ」というーつの道だけを守って、これだけにひっかかると、かえって相手を殺すことにもなるのであります。

 

 

 

 

昨日のつづきです

 

 

 

 

『無門関(むもんかん)』に「機輪(きりん)の転ずる処、達者も猶(な)お迷う、四維上下(しいじょうげ)、南北東西(なんぼくとうざい)」という頌(しょう)がある。

 

 

 

これは、レールの上を車が走る、レールの上を走るのなら、真っ直ぐに走れるし、その上だけを走っているのなら脱線する恐れはない、と同じように、嘘をつくなかれという一本の線路の上を歩いていたらまちがいはないように思われる、

 

 

 

ところが一本の線路を走っていたら向こうから汽車が驀進して来るのに出会(でくわ)すと、避けようがないから真正面にぶっつかつて砕けてしまうより他はないのです。

 

 

 

レールの上の汽車は安全なようだが融通が利かない、融通が利かないというのはそれが天地(てんち)に満つる道ではないことであります。

 

 

 

天地に満つる道は自在無礙(じざいむげ)の道でありますから、融通の利(き)かないなどということはありえない。それはあらゆるものを生かす道であります。

 

 

 

天地に満つる道は、ある雷となって天地に鳴り響き、空中窒素を肥料に変じ、ある時は大雨(たいう)となって天地を霑(うるお)し、またある時は雪となって天地を浄化する―こういうように千変万化する。千変万化するのでよいのです。

 

 

 

天気ばかりがいいと思って、晴天という一本道にばかり凝り固まっていたらどうなりますか、しまいにどこもかしこも干上がって早魃(かんばつ)を起こしてしまう。晴天の必要なことはもちろんだけれども、風も、雨も、雪も、雷も、必要に応じて現われる天地の道に他ならないのであります。

 

 

 

生長の家では、天地一切のものと和解せよと、説いています。しかしこれも和解という言葉にひっかかってはならない。和解という一筋道に凝り固まるとかえって衝突することもある。

 

 

 

何事も和解、和解と、そのー本道に乗っていると、医者が病苦で弱って自分で死にそうだと言っている患者を診察して、患者の悪い症状と和解したつもりで「あなたは大変熱が高い、もう死にそうだ」などと言ってごらんなさい。医者はいかにも病人の意見とは和解したことになるでしようが、そのために患者を生かすことはできないでありましょう。

 

 

 

また、すべての人と和解せよ、と言うと、敵が攻めて来ても、それに手向かうことは和解にならないというので、こちらは少しも防ぐこともせずに、ただ頭を下げている―そうしたら結果はどうなるか、敵に踏み躙(にじ)られて滅びてしまうことになる。

 

 

 

そのように「こをうせねばならぬ」という窮屈(きゅうくつ)な一本のレールの上に乗っていたら、他人をも生かされないし、自分も滅びでしまわなければならない、それでは真理を明らかにすることもできないのであります。

 

 

 

それでは本当の道ではない。本当の道というのは、ーつに凝り固ってしまうのでなく、機に応じて縦横無尽(じゅうおうむじん)に姿を変じ、それによってすべてが生かされる道でなければならないのです。

 

 

 

ある時は観世音菩薩のごとく優しくあることも必要だし、またある時は不動明王のごとき権威をもって起つことも必要なのです。

 

 

 

常にこうでなければならないというのではない、臨機応変、無礙自在に動きうる道でなければならない、そうあるのが本当の道であって、その本当の道にのった生活をすることが大切なのであります。

 

 

 

では、どうしたら一つに凝り固まらない自由自在な本当の道にのることができるかと言いますと、それは実相に入ること、すなわちわれわれの実の相を悟ることであります。

 

 

 

いつも言いますように、われ神の子なり、という実相をしっかりと掴んだ時に、自然に、自由自在な実相(すがた)が顕われて、無礙自在な本当の道を、生きて歩むことができるのであります。

 

 

 

 

つづく

 

 

 

 

 

 

☆ 道の道は道にあらず!凄いですね!各々読んで感じていただく方がいいようですね!

 

私ここの和解の処で何でもかんでも和解しろという事で和解したら駄目だと書いているところ読んだ時一瞬ギクとなりましたね!

 

これは大調和の神示の中に和解しろ感謝しろと書いてある重要な処ですからね!私しも「ねばならぬは」は駄目だという事くらい知っておりますよ!笑!

 

知っておるどころではない、今日の一番最初に書いてある、無門関解釈何回読んだか知れない。これは囚われるな無の関門を透過しろという禅宗の本のようですが、雅春先生がこれを解釈して出版されています。これが今では禅宗の教科書になっているとか聞いた事がありますが、凄い本です。いつかブログにも載せたいと思っています。

 

それを何回も読んでいつも自由自在が生長の家だと口癖のように言っていましたが、和解に囚われていたのではないかと思いました!笑!

 

いつのまにか色々なものにとらわれているようですね!医学博士の徳久先生は握ったり放したりですよ!握らなければ放せませんよ!と言われました。