32・甘露の法雨講義



○ 人間の実相および仮想




こういう話があります。それは、四、五日前水浦さんという方がわたしに話されたのでしたが、その方のお子さんが小さい時大変弱くてほとんど死んでしまいそうになられたことがありました。



水浦さんは『法華経』に熱心で、観音信者でありましたから御自分のお子さんが医者にも見放されて、いよいよもう駄目だということになった時に仏に願(がん)をかけて「わたしの子供を助けて下さったら必ず日蓮さんのお弟子にいたしますからどうぞして子供を助けていただきたい」と祈願されたのでありました。



ところが不思議なことにそれ以後、医者の見放してしまった病人の容体がずんずんよくなってきて、死にそうであった病人がそのまま治ってしまったのでした。



それでいよいよ子供が成長した時に、この子供は日蓮さんの弟子にすると仏に願かけて助けてもらったのだから、どうでも日蓮宗の坊主にしなければならないというので、仏教の学校である立正中学に入学させたのでありました。



ある時、そのお子さんを知り合いの誰方(どなた)かが人相見に連れて行かれた。そして、見てもらうとその人相見の言うには、「このお子さんは坊さんにするには適さない。それよりも理学者にさせるとよい。理学的に発達した頭を持っているから、必ず大成する」と言ったそうであります。



然しそのころは本人は何も考えずに親の言うままに坊主になるつもりで学校に通っていた。ところが成長してくるにつれて自分が坊主になることがどうしてもいやになってきたのです。



それは成長するにしたがって寺院の弊風(へいふ)や、坊さんの内面生活などを見るうちに大変矛盾を感じきて、時の経つにつれて、どうしても坊主になることが耐えられないほど嫌になってきたのです。



けれども親は、仏様に約束したのだからお前はどこまでも坊主にならなければならない。坊主になるという約束で助けてもらった命だから、といって無理矢理に学校にやって、やっと立正大学の予科まで進ませたのですが、子供自身はいやでいやで仕方がない。



それで学校では先生と常に口論する。仏はあるの、ないのと議論をふっかけて先生をやっつけるのです。先生は「君のように理屈ばかり言っていては駄目だ、信仰というものは、理屈をぬきにして無条件に信じなければいかん。理屈を言っていたらいつまでたっても信仰なんてものは分かりっこはない」と言う。



するとお子さんはお子さんで、「理屈で分からないような信仰なら、信ずる必要もありませんね」と言って、そのまま立正大学を止してしまい。今度は理科学を専攻するというので、遂に早稲田の理工科へ転校されたのでありました。



しかし元来虚弱な質(たち)でありますので時々病気をする。すると親は、いったん仏様に約束して日蓮さんのお弟子にすると言ったのだから、どうでも坊主になってもらうつもりだったのに、それにこの子が坊主にならないで理化学者になると言っている。



これでは仏様との約束に背いたことになる。ああ仏様と約束して仏様に捧げた生命(いのち)のこの子は仏様の御用をしないといつ死ぬかも分からないいというので、常に戦々兢々(せんせんきょうきょう)の状態で日を送っていられたのでありました。



その水浦さんがごく最近のこと、仏壇に祭ってある観世音菩薩の像に対(むか)って称名(しょうみょう)し仏様に破約(はやく)をした罪のお詫びをしていられますと、どこからともなく自分の頭の中に閃くような声があって「五月号の『主婦之友』を見よ」という言葉が聞こえてきたのであります。



不思議だなと思ったけれども確かに聞こえたのですから、これはあるいは仏様のお知らせかもしれないというので、もうしまい込んであった「主婦之友」の五月号をひっぱり出してみられた。そしてペラペラとページをめくっておられるうちに、「奇跡的精神療法の真相を探る」という題目が目についたのであります。



子供の虚弱が気になっている際とて、釣り込まれて読んでみると、それには生長の家に這入(はい)って病気の治った方の実例が書いてあって、そのあとに、いったいどうして病気が治るかということが説明してあったのですが、水浦さんはそれを読んでゆかれるうちに、『主婦之友』のわずかな概要の説明の中にも、生長の家の説いていることは、日蓮上人(にちれんしょうにん)の説き方と同じだなと気がついてこられたのでありました。



読み終わって思うのに、これこそ、この生長の家の教えこそ日蓮上人の教えである。『法華経(ほけきょう)』の神髄は確かにここにある。それでわたしが観世音菩薩にお詫びをしている時に、観世音菩薩がこれを読めと教えて下さったにちがいない。



そしてわたしはわざわざ古い雑誌をひっぱり出して、これまで雑誌を見ていながら少しも気がつかなかったこの記事を読みあてた。ああありがたいことだったと思われたそうであります。



で、さっそく『生命の実相』を取り寄せて見られると、ますます『法華経』の真髄は生長の家にあると分かって大変喜んでわたしのところに来られたのでしたが、子供のことがまた気にかかる。どうにかして安心を得たいと思うが、先生どうしたものでしょうか、と皆さんが帰れてから、初めてわたしに話されたのでありました。



それでわたしは言ったのです。日蓮上人の弟子になるということは、何も坊さんになることではありません。お寺の坊さんになって、死骸に対して念仏を称(とな)えることが日蓮上人の弟子になることだなんて飛んでもない話です。



日蓮上人は「立正安国論」を書かれ、そして日本国をば本当に生かすべき道を教えられた傑僧(けっそう)です。だから本当の日蓮上人の弟子は、生長の家により、『法華経』の真髄を理解して、その教えに従い、本当に日本国を生かす者ででなければならないはずです。



ですから、日蓮上人の弟子になることは坊主になることではありません。



あなたも言われたように、『法華経』の神髄を解くものが生長の家です。それを知らすために観音様があなた『主婦之友』を読めと言われた。それなら、『法華経』の神髄である生長の家の教えをそのまま行なって、日本の国の杖となり、柱となる人間になることこそ本当の日蓮上人の弟子になることではありませんか。



子供を坊主にしなかったということで思い煩(わずら)う必要はない。あなたは帰ってお子さんに『生命の実相』をよく読ませ『法華経』の神髓を体得させ日本国の柱になるような人間に養成なさい。これこそ真に日蓮上人の弟子になる道です。



あなたはこれまで、日蓮上人の弟子になるということを思い違いしておられた。それでそのことを気づかせるためにあなたが普段信仰してていられる観世音様のお声が聞こえたのであります。



こういうように観音様と生長の家の神様とは連絡がある。いな、同じ神様が時と場所と人とに応じて、観音様とも現われ、キリストとも現われ、生長の家の神様とも現われられるのです。



その現われられた動機を、この場合の例を引いて申しますと、これは親が子供のことについて心を悩まして、どうにかして助けてほしいほしいと常に思っていたからその念が仏(すなわち宇宙に満つる真理)に通じて仏から救いの念波が「『主婦之友』を見よ」という観世音菩薩の声になって水浦さんに現われてきたのです。



これが「衆生仏を憶念すれば、仏衆生を憶念す」ということで、空中にマイナスの電気が起これば、一方にプラスの電気が起こるようなものです。



救って欲しいと水浦さんが仏を憶念した時に、救ってやるぞといって仏が出て来られ「生長の家」を教えられた。これは救いの天使(てんのつかい)である。この場合、水浦さんには観音様の声が現われ給うたのであります。




キリストは聖書の中に「吾は真理なり」と言っています。「吾は真理なり、吾によらで神の国に入るものなし」と言っている……。



これを、キリスト教信者たちは「キリストによらなければ救われるものがない」というキリストという言葉にひっかかって、さあ、なんでもかで聖書をよんでキリストによらなければ、われわれは一生救われない、われわれを救って下さるものはキリストだけだ。



阿弥陀では救われない、他の何宗でも救われない、どうでもキリスト教でなければならない、というふうに言いますが、それは違います。



むろんキリストを通さなければ、キリストによらなければわれわれは天国に入ることはできない。それは本当です。けれどもこのキリストは「吾れは真理なり」と言ったその真理でなければならない。決して、二千年前にユダヤに生まれた肉体キリストのことではない。



真理そのものであるキリスト「アブラハムの生まれぬ前より我はあるなり」と言った久遠生きとおしのキリストによらなければ天国に入ることはできない。



この真理によらなければ実相を悟ることはできないということであります。キリストというのは真理の、実相の神の応現でありますから、そのキリストがある時は観世音菩薩となり、また、ある時は生長の家の神様となって現われられるのです。



ですからキリストによらなければ救われない、というのはすなわ真理によらなければ救われないということであって、何もキリスト教でなければならないということではない。



キリストも、釈迦も、弘法も、また各教祖もみなそれぞれの時代、それぞれの信仰の程度に従って応現した、一つの神の救いの天使なのでありますから、どの宗教も神髓はただ一つであって、神髓さえ掴めばどれによらなければ救われないということはないのであります。





つづく




☆ 我が子を救う為に願をかける気持ちわかりますね!しかし日蓮の弟子とは坊主になる事では無く、「…… 日本の国の杖となり、柱となる人間になることこそ本当の日蓮上人の弟子になることではありませんか。」

信仰すると言うことは、神・仏のお役に立つ!という事は勿論信仰も必要ですが正しい生き方、自分の役目を果たすという事でしょう。

又神、仏を日本では天照大御神と呼び、アメリカやヨーロッパではキリスト、仏教徒はお釈迦様、雅春先生は日本語ではありがとうございますを英語で言えばサンキューと呼ぶように、呼び方が違うだけと言っておられます。

雅春先生は国家の事もたくさん書いておられます。特に天皇陛下の事については詳しく書いておられます、日本には日本の国の成り立ちがあり、アメリカにはアメリカの成り立ちがあり、真似する必要はない!

日本は神様が作った国です。天皇陛下は国家の中心で元首であられねばならないと説いておられます。又憲法も現在のは占領憲法で変えなければならない、今の憲法を守っている限り、日本弱体化の為に書かれている占領憲法の言葉により日本は弱体化するしかないと書いておられます。

今までの自民党の総理の中でも何人かは雅春先生のお言葉を聞き憲法改正をと思われたが出来ませんでしたが、やっと今安倍総理が憲法改正をやろうとしています。一日も早い憲法改正を!

 

詳しくは当ブログの憲法を読んで頂ければ雅春先生の思いが書いてあります。