29・甘露の法雨講義  (罪)

 

 

 

昨日の項です。

 

 

われわれが感覚で知ることのできる世界に現われた罪のない状態の写真的現象によって、人々を納得させ、罪本来無しと説明することができるのであります。

 

現われ、すなわち実相の写真がその実証となるわけであります。たとえば悪癖(あくへき)を持った子供を、人間は神の子であって、その実相においては完全円満なものである。「悪癖は無い」と観ずることによって、たちまちよい性質に変わって今までの罪が消滅してしまうというような、これまでの悪習慣が現実に消えてしまうことによって、罪本来なしと証しすることができる。また喫煙癖が治ったとか、女狂(おんなぐる)いの夫が女狂いしなくなったとかいう塩梅式(あんばいしき)に、罪の現われが消えることが、すなわち罪本来なしの目に見える写真的実証になるのであります。

 

これ以上根本的に罪はないという実証肉眼に見せることはできないのですから、それ以上は「神は完全である」という根本的真理の直感によって、一人一人がこの完全なる神の造り給うた世界に罪がないということを認識する他はないのです。

 

 

 

つづき

 

 

 

それで罪も死も、あるように見えても畢竟(ひっきょう)無いものであるから、神の創り給わない罪、老、病、死をあるがごとくに思って恐怖するな。

 

 

 

それは神の創り給うたものではないから、実在するように見えても、それは実在という仮面を被っているだけのものである。

 

 

 

恐しい鬼の面を引き剥いで見たらば、その奥には、慈愛に満ちた菩薩の顔があったというように、死とか病とかがあるように見えているのは仮面であって、それを引き剥いでみたら、罪や死や病はなく、ただ永遠に生き通しの生命のみがあると分かるのであります。

 

 

 

この、人間は永遠生きとおしの生命そのものであり、罪はいっさい存在しないということを分からせるために来給(きたま)うたのが生長の家の神様であります。

 

 

 

かつて釈迦もキリストもこのために来り給うたのであります。キリストが言葉の力にて罪を消し、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)と称(とな)えたらいっさいの罪が消え、十方(ぽう)の諸仏がわれわれの罪を消す働きができるのも罪が無ければこそであります。

 

 

 

もし神が罪を創(つく)り給(たま)うて、罪が真実な存在であるならば、いくらえらい仏様の働きでも罪を消すことはできない、罪は迷いの影であって、本来無いものであればこそ十方の諸仏も衆生を摂取(せつしゅ)してよく罪を消し給うたのであります。

 

 

 

キリス卜もただ「汝の罪赦されたり」という言葉だけで人々の罪を消し給(たま)たのです。しかるにその言葉を聞いたパリサイ人は、キリストがなぜ罪を赦すなどという権利を持っっているのかといって反抗し疑ったのであります。

 

 

 

神神が罪を創(つく)り給うたかのようにパリサイ人は考えていたから、勝手に罪を赦すなどとは神に対する冒涜(ぼうとく)であるというのでイエスをしばって磔刑(はりつけ)につけてしまった。

 

 

 

ところが神は罪を創り給わない、それでこそ罪なし」とただ言葉で宣言することによって罪は完全に消え去り、イエスの言葉の力によって躄(いざり)者が立ったり死者が蘇生(よみがえ)ったりしたのであります。 

 

 

 

 

 

 

われもことばにて

 

「生長の家の歌」を書かしめ

 

言葉の力にて罪の本質を暴露して

 

罪をして本来の無に帰せしむ

 

わが言葉を読むものは実在の実相(ほんとのすがた)を知るが故に

 

一切の罪消滅す。

 

わが言葉を読むものは

 

生命の実相(ほんとのすがた)を知るが故に

 

一切の病消滅し、

 

死を越えて永遠に生きん

 

 

 

 

 

ここにありますとおり、生長の家の歌は言葉の力をもって罪の本体を暴露し、罪本来無しと説いているのでありますから、この言葉を読む時はいっさいの罪消滅し迷い失(う)せ、罪も、病も、悪きものいっさいのない、永遠生きとおしの、神そのものなる実相人間、神の国そのままなる実相世界が顕現してくるのであります。

 

 

 

これは決して空理空論ではないのであって、生長の家の信徒はことごとくと言っていいくらい、実際にその説かれる教えのとおりを実生活に体験しておられるのであります。

 

 

 

今日(こんにち)も話しましたように四十七年間の痘痕(あばた)が消え、八十二歳をすぎた老人の骨折が癒えて歩けるようになり、瀕死の病人が生き返るというような、まったく奇跡というような事実が頻々(ひんぴん)として起こるのであります。

 

 

 

今までのように迷いや、物質や、罪や、死があると思っていたのでは、四十七年間もの痘痕は治らない、物質の骨折などは治らない、こんなひどい病気は治らないと思いこんでいた、その迷いを、無いものをあると思いこんでいた迷いを、「迷いなんて本来ないのだ。

 

 

 

罪なんて本来無いのだ。人間は神の子であって本来円満完全」であるという生長の家の歌『甘露の法雨』の功徳によって、スカッと罪の迷える意識を断(た)ち切ってしまう。

 

 

 

その時にいっさいの罪は姿を消して、そこに本来の濁(にご)りなき完全なる実相が現象世界にも、その写真として姿を現わしてくるのであります。

 

 

 

この現(うつ)し世に、完全円満な人間の本来相(ほんらいそう)が現われてきた時に、天国浄土が現実に顕現して、いっさいの罪も、病も、死も、悪もことごとく消滅して、ただ光明そのものの実相世界の映しの世界となるのであります。

 

 

 

これがいわゆる地上天国の建設であります。

 

 

 

つづく

 

 

 

☆ 上記にありますようにこの甘露の法雨を病人に、仏壇のご先祖様に読む事によりたくさんの奇跡が現れています。

 

尚、雅春先生は健康が当たり前で病気になるのが奇跡ですと説いておられます!笑!

 

 

昨日の夜から行われていました、大嘗宮の儀も無事終わったようで、今日は雲一つない天皇晴でした。山の木々も色づきいちだんと鮮やかに見えました。これも日本の実相が顕現して写真にして見せてくれたのではないでしょうか?

 

それに比べ新聞、テレビ、マスコミは桜の事と、笑!大嘗宮が違憲とか政教分離がどうの、公金がどうのといかにも問題があるように言っていますが、今朝の産経新聞に「大嘗祭への違憲論はすでに平成の御代替りの祭、憲法上問題なしと政府が結論を出しているという事です。又最高裁でも合憲の判断が出され、五件の裁判でもすべて原告は完全敗訴となっていて 解決済み」と国士舘大学特任教授 百地章氏が寄稿されたと載っています。

 

産経以外マスコミは何処も中国、韓国によってすでに支配されているようですね!芸能界は韓国人が支配しているのは確かのようです。

 

 

 

 

いよいよ明日から甘露の法雨の最終項 (人間)です。