「甘露の法雨講義」

 

 

 

実在

 

 

★昨日の最後の処です。

 

しかしいくら影が短くなっても、また長くなっても、わたしたちは変わらない五尺何寸の体であるのに太陽の高さに従って、うつる影が変わってくる。これの相異は、光線の来るる傾斜の度によって変化するので、現象界に物が現われる場合にも、念のレンズの傾斜の度によって、実相界にすでに豊富に与えられているものが少なく現われたりするのです。実相では、すでにすべてが備わっているのですけれども、それが肉眼で見うる世界にのびてくると、わたしたちが欲した時にそのものが初めて現われ出たように、また現われ出ないようにも思われる。これが、要するに時間、空間の形式を通した時に生ずる「歪み」なのであります。

 

 

 

つづき

 

 

 

だから、この「歪み」に捉われて本来与えられている実相を見誤(みあやま)ってはならないのであります。

 

 

 

で「汝ら、この『歪み』に捉われることなく、生命の実相を正観せよ」とこの聖経に書いてあるので、皆様はこの「歪み」によって生じた物質的現われを本当の存在物だと思ってはいけない。

 

 

 

この物質的不自由のスガタを、そのまま実相だと思ったらいけない。

 

 

 

実相の世界においては、すでにいっさいのものはわれに備わっている。これが実相である。この実相を正観せよ、生命の、本来歪みなき、自由な相(すがた)を自覚せよ、と言っているのであります。

 

 

 

最後の一句に「生命の実相を知るものは因縁を超越して生命本来の歪みなき円相的自由を獲得せん」とありますように、

 

 

 

実相というものは、渾(すべ)てがすでに備わっている、自由自在な円満完全なものであるのです。

 

 

 

生命を円相円満完全なものとだけ言いますと、静的な、なんとなく陰気くさい姿を想像しやすいのでありますが、

 

 

 

生命は欠くることなく完全円満な、静的ものであるばかりではなく、それと同時に非常に動的なものであるのであります。

 

 

 

生命は実に自由自在である―円相であると共に自由である。だから円相的自由という言葉をもって生命の動的なることを現わしているのであります。

 

 

 

生命の實相では円満完全であると同時に限りなく動的な自由自在な無礙奔放(むげほんぽう)な生命であるということを非常に尊ぶのであります。

 

 

 

 

 

つづく

 

 

 

谷口 雅春 著 「甘露の法雨講義」実 在

 

 

 

 

 

 

★梅の花の神示

 

昨日の最後のところです。

 

此の神示に於て「スメラミコトが開き展(の)びるとき音をたてるのであるから、固き梅の蕾の花を開かせてそのー輪毎にポンポンと音をたてさせて型が示しあった」と、日本國力の伸展には「ポンポンと音を立てる」とあるのに注目しなければならないのです。既に心の世界に於ては、ポンポンと音をたてる大東亜戦争はその「國力の伸展」の中に、其の現象化のための「心のフイルム」がつくられつつあったと見ることができるのです。

 

 

 

つづき

 

 

さてその神示は續(つづ)いて宣(のたま)ふ。―

 

 

「梅の花とは、生みの花―創造(うみ)の始動(はな)のことである。『生みの花』はまた『海(うみ)の原(はら)』のことである。『梅の花』の五辮(べん)は五大洋に象(かた)どる。五大洋にスメラミコトの花が開く始まりが今年である。

 

 

一つ開く毎にポンと音がさせてあるのは何の象徴であるか考へれば判(わか)るであらう。何事もなしにはスメラミコトの花は開かぬのである。一つ一つ開く毎にポンポンと音を立ててつひに五大洋に梅の花がひろがるのである。

 

開くまでには厳寒の冷たい日か續(つづ)くが。厳寒の冷たい日があるのでー陽來復(やうらいふく)の日が來るのである。無明(まよひ)の自壊作用がないのに光明遍滿(くわうみやうへんまん)の樂土(らくど)が來るなどと甘いことを思ふな。

 

昨年十二月十一日にも『戦ひの時が來たのだ』と知らせてある。ヒノモトの軍(いくさ)が厳(おごそ)かに進むのは、無明の世界を照らす唯一の光が進むのである。

 

甘い平和論に耳を傾ける(?な)。膏薬貼(かうやくば)りで此の世が幸福になるなどと思ふな。

 

“昨年十二月十一日にも「戦ひの時は来たのだ」と知らせてある”と書かれてあるのは、昭和八年一月號の『生命の實相』の冒頭に、“神示”とは明示(めいじ)せずに、(昭和七年十二月十ー日靈感)と附記(ふき)し、「巻頭のことば」として載せられてゐるのが、それであります。

 

その啓示があまりにも戦闘的であるので、それは「神示」ではなく、一種の靈感に過ぎないのであって、多少神意が歪めて傳ヘられてゐる惧(おそ)れがあるかも知れないと思ったので、「神示」と明記(めいき)しないで「靈感」といふ風に私は表示しておいたのでした。それには次のやうに書かれてゐるのであります。

 

 

つづく

 

 

谷口 雅春 著 「秘められたる神示」