◎ 病を癒す心の持ち方とその実践法

 

人間は本来健康であるのが實相(ほんとうのすがた)であり、病気や不幸などは偽物のすがた(仮相)である!「病気は本来無い。神の造リ給わないところの病気は全然無い。

 

病気とは心に描いた仮相的存在でありますから ……  中略 …… 病気の夢を見ていた人が目を覚まされた時のように、今まであると思っていた病気が、どうしてこんなに治ったのだろうと不思議がるような事実も出来て来るのであります」

 

 

 

つづき

 

 

 

◯ 『続々甘露の法雨』など力強い真理の言葉を唱えましよう

 

 

 

本当に“心”の平和を得たときには病気は存在しないのである。

 

 

 

“心”の平和は生命力を喚起する。

 

 

 

若し病気に罹って、それが増悪するかも知れない恐怖心にかられて困るようなときには、聖経のー部の力強い言葉の部分を繰返し繰返し心のうちで唱えるがよいのである。

 

 

 

「続々甘露の法雨」などはそれに最も適するのである。

 

 

 

言葉には不思議な力があって其の言葉の唱えるところの通りのものを具象化する力があるのである。

 

 

 

言葉は神であり、神は言葉によってー切万物を造りたまうたのである。

 

 

 

随(したが)って其の神の生命を内に宿して「神の子」となっているところの「人間」も言葉によってー切のものを造り出すことができるのである、

 

 

 

善き言葉は心を動かし、生命を喚びさまし、実相の完全さを実現する力をもっているのである。

 

 

 

 

 

 

谷口雅春 著 「病を癒す心の持ち方とその実践法」完!

 

 

 

 

 

 

★明日から再び甘露の法講義(物質)です。

 

今まで心が変わると健康も環境も変わるとありますが、しかし心にとらわれると、コロコロ変わる心に振り回されます。これは縦の真理、横の真理の横の真理になります。これは仏教もキリストも普通の宗教が説く因縁因果の世界です。生命の實相は縦の真理、心もないという事です。その事が雅春先生が悟られる迄のが生命の實相20巻に載っていますので!

 

 

…… 省略 ……

 

ある日わたしは静座合掌瞑目して真理の啓示を受けるべく念じていた。わたしはその時、偶然であろうか、神の導きであろうか、仏典の中の「色即是空(しきそくぜく)」という言葉を思い浮かべた。と、どこかからとも声が、大濤(おおなみ)のような低いが幅の広い柔らかで威圧するような声が聞こえてきた。

 

「物質はない!」とその声は言った。で、わたしは「空即是色」という言葉をつづいて思い浮かべた。

 

と、突然その大濤のような声が答えた。「無よりいっさいを生ず。一切現象は念(こころ)の所現にして本来無。本来無なるがゆえに、無よりいっさいを生ず。有(う)よりいっさいを生ずと迷うがゆえに、有に執して苦しむのだ。有に執せざれば自由自在だ。

 

供給無限、五つのパンを五千人に分かちてなお余り『無』より百千億万を引き出してなお余る。現象界は念のレンズによって転現せる化城にすぎない。かしこに転現すると見ゆれどもかしこに無し。ここに転現すると見ゆれどもここに無し。

 

知れ、一切現象無し。なんじの肉体も無し。」では、心は、心はあるであろうかと思うと、その瞬間、「心もない!」とその声は言うのだった。

 

今まで、わたしは「心」という得体の知れない悍馬(かんば)があって、それを乗りこなすのに骨が折れると思っていたのだ。ところが「心もない!」という宣言によって、わたしは、その「心」の悍馬から実相の大地に降りたのであった。

 

「心もなければ何も無いのか」とわたしは再びその声の主にたずねた。

 

「実相がある!」とその声はハッキリ答えた。

 

「無のスガタが実相であるか。皆空(かいくう)が実相であるか」とわたしは尋ねた。

 

「無のスガタが実相ではない。皆空が実相ではない。皆空なのは現象である。五薀が皆空であるのだ。色受想行識ことごとく空である!」

 

「空と無とは異なるのではないか」とわたしはたずねた。

 

「空と無と異なるとは思うな。五薀皆空であるのに空とは無ではないと思うから躓く。空を無とは異なると思い、『無ではない』と思うからまた『五薀は無いではない』と引っかかるのだ。『五薀は無い』とハッキリ断ち切ったところに、実相が出て来るのだ。

 

無いものを無いとしたところに、本当にアルモノが出て来るのだ。」

 

「では、実相とはなんであるか」とわたしは訊いた。

 

「実相とは神である。あるものはただ神のみである。神の心と神の心の顕現のみである。これが実相だ」ここに神というのはむろん「仏」という意味も含んでいた。

 

「心も無いのが本当ではないか。」

 

「無い心は受想行識の心だけだ。そういう意味でなら仏もない、衆生もない。心、仏、衆生三無差別と説く場合には、心もない、仏もない、衆生もない。衆生を抹殺し、仏を抹殺し、心を抹殺し、いっさい無いといっさいを抹殺したときに、実相の神、久遠実成の仏が出て来るのだ。」

 

「それが、キリスト教ならイエスを十字架にかけることになるのですか。」

 

「そうだ。肉体イエスを抹殺した時、実相のキリスト、アブラハムの生まれぬ前から生き通しの久遠のキリストが生きているのだ。イエスの十字架は現象を抹殺せば実相が生きて来るという象徴である!

 

今、ここに、久遠生き通しの生命が復活する。今だ、今だ!久遠の今だ!今が復活だ!今を活きよ。」

 

わたしの眼の前に輝く日の出の時のような光が燦爛と満ち漲った。何者か声の主が天空に白く立っているように思われたが、それはハッキリ見えなかった。しばらくするとその燦爛たる光は消えてしまった。わたしはポッカリ眼をひらくと、合掌したまま坐っている自分をそこに見出したのであった。

 

 

それ以来、心、仏、衆生三無差別(しんぶつしゅじょうさんむさべつ)の心というものが本来無いものであるということがわたしにハッキリわかった。迷う心も無いから、悟って仏になる心もない。迷う心が進化して悟って仏になると思っていたのがまちがいであったのである。

 

ただ初めから仏であり、神である「実相の心」があるだけである。その実相の心が展開した実相の天地があるだけである。

 

浄飯王(じょうぼんのう)の王宮を出て伽耶城(がやじょう)を去ること遠からず、菩提樹下に六年静思(せいし)して初めて悟りをひらいて仏となったという現象の釈迦牟尼仏は本来無かったのである。

 

『法華経』の中で、釈迦自身が、「我実に成仏してよりこのかた、無料無辺百千万億那由他功(なゆたこう)である」と言ったその久遠の仏のみが実在であったのである。その久遠の仏が今ここに生きているのだ!

 

十字架上に磔けられて、「神よ、神よ、なんぞ我を捨て給うや」と哀号したイエスは本来無かったのだ。永遠の神性(キリスト)ー「アブラハムの生まれぬ前から生き通し」とみずから言ったキリストのみが実在であったのだ。

 

自分もまた明治二十六年十一月二十二日に母の肉体より誕生したのではなかった。そして、現在の今はじめて悟ったのでもなかったのである。ここのままで、久遠の昔、そして久遠の今、はじめなき始めから仏であった自分であったのだ。わたしはその心境を次のように歌ったー

 

 

…… 途中省略 ……