◎ 病を癒す心の持ち方とその実践法

 

 

 

人間は本来健康であるのが實相(ほんとうのすがた)であり、病気や不幸などは偽物のすがた(仮相)である!「病気は本来無い。神の造リ給わないところの病気は全然無い。

 

病気とは心に描いた仮相的存在でありますから ……  中略 …… 病気の夢を見ていた人が目を覚まされた時のように、今まであると思っていた病気が、どうしてこんなに治ったのだろうと不思議がるような事実も出来て来るのであります」

 

 

 

 

◯ 病気は心の誤った信念からつくられる

 

 

 

病気というものは、罪(即ち包みて生命の円満完全さを自覚せぬこと)から起るのであって、

 

 

 

「心」が吾々の本来の生命の實相(ほんとのすがた)を自覚せず、

 

 

 

「心」の苦しみ、心の痛みは「心」自身で治すことが出来るものであることを自覚せず、

 

 

 

肉体が「心」というものから独立して病苦を感じ得るという誤れる信念から起るのであります。

 

 

 

……  中略   ……

 

 

病気とは、、心が病み、心が痛むのであって、心の病、心の痛みを「肉体が痛みを感ずる」という不合理な迷信によって、

 

 

 

肉体の上に投影(かげをうつ)し、最後にその、心の力によって、肉体の化学的成分、肉体の生理的作用にまでも病的変化を起すことになるのであります。

 

 

 

ここの道理がわかって来ますと、吾々は決して自分の欲しない肉体の状態を、自分の心に想像しないようにしなければならないのであります。

 

 

 

 

つづく

 

 

 

谷口雅春 著 「新編「生命の實相」第3巻」

 

 

 

 

★ 罪という事で生命の実相25卷 谷口雅春著 に次のように書いてあります。

 

 

【浄土湧出、キリスト再臨とは各人の心の内に地上天国をきたらせることでありまして、一人のキリストが空中高く現われて、善人のみを救いとって、悪人をゲヘナの火に投げ込んで焼き滅ぼしてしまうという、ホーリネス教会の信仰みたいなものではないのであります。

 

世の中の人類一人一人の中にキリストが生き、人類全部が生けるキリストになることこそ、ほんとのキリスト再臨なのであります。皆さん、わたしの申しましたこと、また本に書いてあることを取り次いでそのまま、人に伝えてくだされば、杵屋さんや、服部先生のように人の病気を治すことができるようになるのであります。

 

聖書に書いてあるようなキリストの奇蹟のまねが皆さんにもできるようになるのです。いえ、まねではありません。皆さん自身の中に十字架に磔けられていたキリストが復活して来るから、皆様自身がキリストになれるのであります。

 

キリストは「汝の罪ゆるされたり。起ちて床をとりて歩め」といわれた。罪がゆるされた、もう罪はないと知った時、すべての不幸はこの地上から姿を消してしまうのであります。

 

この「罪を消す」ということは、お前は罪悪があるけれどもまあ赦してやるぞ、ということではないのであります。

 

罪それ自身を消してしまうこと、これが罪をユルスということなのだ。

 

罪をユルスの「ユルス」は釈放の「釈」の字であって「釈く」(とく)ということである。

 

つまり、われわれの実相のキリストの完全な姿を罪という「包み」でつつんでしまっている。その風呂敷包みを釈きほどいてしまうことであるのだ。

 

そうするとこれまで中につつみ匿されていたダイヤモンドのごとく光り輝くわれわれの神性、内在のキリスト、または仏性が自然と現れてくる―これが罪の釈された状態なのであります。

 

罪を釈すとは、罪があるけれども勘弁してやるということではない。

 

罪があるがごとく心を迷いで縛っていたから、その迷いの縛りを言葉の響きによって釈(ほど)いてしまって本来の自由自在の姿を現わすということ、

 

包みを釈くということ、包みを解脱せしめるということなのです。ここに到ってキリスト教の釈しということと、仏教における解脱ということとはまったく同じことになるのであります。】