★下記は「甘露の法雨」の(霊)の項の一部です。

 

 

 

感覚はこれ信念の影を視(み)るに過ぎず。汝ら霊眼(れいがん)を備えて霊姿(れいし)を視るとも実在を視たるに非ず、感覚にて視得(みう)るものはすべて心の影にして第一義的実在にあらず、

 

霊姿(れいし)に甲乙あり、病める霊あり、苦しめる霊あり、胃袋もあらざるに胃病に苦しめる霊あり、心臓も有たざるに心臓病にて苦しめる霊あり、これすべて迷いなり、

 

斬(か)くの如き霊、人によればよられたる人或いは胃病を顕し或いは心臓病を顕すされど霊覺(れいかく)に映ずるさまざまの苦しめる霊は第一義的実在にあらず、

 

彼らは誤れる信念によりて流転せる迷いの影なり迷い迷いて流転せる心はその信念が形となりて假(かり)の相(すがた)を現(げん)ずべしされど如何(いか)に相(すがた)を現ずるとも假相(かりのすがた)は永遠に假相(かそう)にして実在となることを得ず汝ら実在にあらざる物を恐るること勿(なか)れ、

 

…… 以下省略 ……

 

 

 

 

「甘露の法雨講義」

 

 

第一  章  神 と 仏 と 霊

 

 

 

 

つづき

 

 

 

さて、われわれはこれらの感官によってものを感ずるのでありますが、感ずるとおりがそこにあると思うのはまがいであります。

 

 

(

われわれは認識の対象としての物そのものに触れて感ずるのでないので、ただそこから来る波動を感ずるのであります。

 

 

 

われわれがここに机がある、ああいう恰好(かっこう)をしていると眼で見ましても、われわれは眼を直接机に突っ込んで触れて感ずるのではありません。

 

 

 

ただ机から来ている波動を感じて机の形に翻訳して感ずるのであります。

 

 

 

そういう形をしていると視えるのは、眼球(めのたま)と机の波動との関係上そう視えるのであって、眼球が三角であったらまた別の形に見えましようし、

 

 

 

楕円形であったらまたまた別の形に見えましょう。だからわれわれが霊眼をひらいて霊の姿を見たといっても、決して霊魂そのものの姿を見たのではない、

 

 

 

霊界から来る波動を、その人の視覚的テレビジョン装置によって形態化して見るのであります、これは、われわれ現世の人の方から霊魂の姿を見る場合のことでありますが、

 

 

 

霊魂自身にとってはどうであるかといいますと、霊魂自身の体(すなわら霊体)はなんによって組織せられているかと申しますと、念の波で組成されている。

 

 

 

自己の体を念の波で組成しながら、それを一方では自分の心でそれを客観的に感じて、自分の体はこういう姿をしていると思うのであります。

 

 

 

だから霊魂自身が自分であると思ってそういう「病念」をもっていますと、その病気が客観化して、その霊魂の霊体には、霊魂自身にありありと感ぜられるような病的状態をあらわすのであります。

 

 

 

霊魂が病気したり、霊体が病気したりするのは変なことのように考えられまするが、霊魂が病念を持つようになるのは、肉体的顕現から、霊体的顕現に移る場合、

 

 

 

活動写真に喩えると、一つの銀幕(スクリーン)への映写終わって、他の銀幕への映写に映る場合、映写と映写との間に何も映らない「間(ま)」が生ずる。

 

 

 

この「間」がすなわち個性意識の中断であります。活動写真に「間」があり、個性意識の中断がありましても、その人の業(映画において、

 

 

 

印象の蓄積たるフィルムの絵)に変化のない限りは、再び意識が回復し、再び映画が始まりますると、その霊魂の意識には(界を変えての映画には)同様の病念が浮かぶのであります。

 

 

 

この病念が客観化して、霊魂自身には病気になっているかのような状態を呈する。

 

 

 

これが霊魂の病気であります。

 

 

 

つづく

 

 

 

谷口雅春 著 「甘露の法雨講義  霊」

 

 

 

 

 

 

 

★今日のところに …… ただ机から来ている波動を感じて机の形に翻訳して感ずるのであります。……   こう書いてあります。

 

私達が机や物を見ていますが、机そのものがそこにあるのでは無いという事です。波動で認識しているという事です。「これは天才科学者アインシュタインの相対性理論のそう見えるだけで、物の落下も薬を飲めば数秒で落ちるのが何分もかかるように見える…以下省略…」と例に出して

 

雅春先生が天才科学者しか分かりませんと説明しておられるように重要なところです。何故重要かと言うと

 

…省略…… 

 

すなわち物質はどうしてこの世にできて来たものであるか。物質というものははたしてわれわれにとって破壊しえないほどの実在性を備えているものであろうか。

 

心と物質との関係はどうであるか。物質というものはわれわれには存在するように見えてはいるが、実はそれは念の影なのではなかろうか。

 

こういう複雑な問題についての根本的理解がないと、肉体といういっけん物質でできているわれわれのからだに起こる病気の解決が完全に行われないのであります。

 

と生命の實相第一巻の最初に書いておられます。