◎ 神と仏と霊
◯ 「神」
☆昨日の最後のところです。
今までは、この我というものが、この物質の、この殻(から)の中に入っているところの小さな意識の主体であると考えられておった。ところが、そんなものは無いのでわれわれの本当の実相はこの天地に充ち満ちているところの法性法身(ほっしょうほっしん)の阿弥陀如来(あみだにょらい)または宇宙普遍の神とーつのものであるのであります。
実相世界の尽十方(じんじゅっぽう)に充ち満ちているこの無限の光、無限の慈悲、無限の真理こそ自分であるということになるのであります。これがわかった時に初めて、極楽往生の本当のことがわかる。浄土に往(ゆ)くべき我もなく、臨終になるべき肉体も無いのに、それだのに自分が肉体の死後浄土ヘ生まれるというような変なことの本当の意味がわかる。
この土にいながら、今ここにいながらこのまま仏である。このまま極楽往生しているのである。この現象界にいるように見えているのは、実は実相浄土にいながら現象界を念の作用にて仮作(けさ)しているのである。ここに即身成仏(そくしんじょうぶつ)がある。だからわれわれは南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)と称(とな)えた時、すでに成仏している自分を見出すのです。
その実相が悟れた時には、三界は唯心の所現でありますから、自分の立ち向かう環境ことごとくが、神と一つなる、無礙光如来とーつになる、無限の知慧なる、無限の真理なる、完全なる、円満なる、その自分自身の、少しも欠くるところなき完全な相が、この環境、周囲および体にも現われてくる。そうした時にこの現世が本当の天国となり、浄土となるのであります。
つづき
そうして機縁熟(きえんじゅく)して、われわれが念の仮作(けさ)する人生を投映する銀幕を代えて、霊界の銀幕に念像を投影して生活するようになる時、
(いわゆるこの肉体が滅した時)われわれの念が光明一元の世界ばかりを見て、光明一元の波長ばかりを起こすようにしていましたならぱ、未来世の銀幕には光明一元の世界が投影され、
そこに、われわれは指方立相(しほうりっそう)の極楽浄土(ごくらくじょうど)を現(あら)わしていわゆるわれわれは極楽往生(ごくらくおうじょう)したことになるのであります。
これですでに実相では成仏している自分が、現世または霊界において極楽浄土を展開したりしなかったりする原理や、本来去来(ほんらいきょらい)することなく、
来世(らいせい)し往生するように現われる理由もおわかりになったでありましょう。
法顕(ほっけん)という人の訳の『無量寿荘厳経(むりょうじゅしょうごんきょう)』にはこう書いてあります。
「かの仏如来(ぶつにょうらい)は来(きた)って来(く)る所なく去って去る所なし生なく滅なく過現未来(かげんみらい)にあらず」これは阿弥陀如来(あみだにょらい)ですが、
それと同じくわれわれも「来たって来る所なく去って去る所なし過去・現在・未来にあらず」過去現在未来を打ち貫いて、そうして今、このまますでに自分が仏であるということを自覚せしめるのがこの生命の實相であります。
次は「霊」という項であります。
つづく
谷口雅春 著 「甘露の法雨講義・神の項 完」
★甘露の法雨は「神、霊、物質、実在、智慧、無明(まよい)、罪、人間」と続きますが、長いので取り敢えず「神」の項で一旦お休みして後日再びはじめたいと思います。
この甘露の法雨は「生命の實相40巻」が凝縮されたものと言われていますので、できたら毎日一回は読まれたらいいようです。
又病人の枕元で読んであげたり、何か問題起きた時甘露の法雨を読誦されるといい解決法が出て来ます。それからこの「甘露の法雨」をさらに凝縮されたのが「大調和の神示」と言うのがあります。(このブログの甘露の法雨講義の欄に掲載しています)
甘露の法雨をあげる程時間がない方は大調和の神示を読まれてもいいですね!甘露の法雨を読誦して、癌が治ったり、難病が治ったり倒産がまぬがれたり、ご主人の浮気、ギャンブル狂いが治ったりたくさん体験出ていますので(このブログに掲載しています。)ので参考にして頂ければと思います。
★ 2019 1 08 のブログにもスターデーリーの事は書きましたが、下記は2017 1 07の「スター・デーリー」に掲載してるブログの一部です。そこに甘露の法雨誦げたら白痴の子が優を十とって白痴が治ったと書いてあります。(詳しくはこのブログの「スター・デーリー」を見て下さい)
…… 省略 ……
何となれば聖書は云ふ『信仰ある祈りは病める者を救ふべし、主は彼らを譽げ給はん。しかして若し彼が罪を犯さば、すべての者、彼を赦すべし』と。そこでたとひ重大なる罪であっても、又それが自己免罪の高ぶりから起る最も有害なる罪であるにしても、それは赦さるべきものである。心配、嫉妬、利己主義、貪欲、人の噂さ話、憤り、缺點を見る心、気短か、自己満足、プライド―これらの生命を破壊するすべての罪悪も赦さるべきであるとデーリーは書いてゐる。
人の噂さ話をすることやプライド(自尊、謙抑の反對)を生命を破壊する惡徳の中に譽げてゐるのは注目すべきものである。
恰度これを書いてゐる時、熊本八代の講習會では子宮癌がプライドを捨てて治った體驗を発表された婦人があった。全部零點の白痴の子供が、その母が自我心を捨て、死んだ姑の靈におわびして『甘露の法雨』をあげただけでその白痴がなほって、十の課目が『優』で他の五つが『良』になった實例があった。すべての罪は赦されるが、それは自我心を捨てたのちである。
谷口雅春 著 「愛は刑よりも強し」