◎ 「甘露の法雨講義」

 

 

◯  神と仏と霊

 

 

 

つづき

 

 

 

では実相の世界というと、どういう世界であるかと申しますと

 

 

 

「神がいっさいのものを造りたまうや粘土を用い給わず、木材を用い給わず、槌(つち)を用いたまわず、鑿(のみ)を用いたまわず、如何なる道具も材料も用い給わず、ただ『心』をもって造りたまう。

 

 

 

『心』はすべての造り主、『心』は宇宙に満つる実質、『心』こそ『全能』の神にして遍在したまう。

 

 

 

この全能なる神、完全なる神の『心』動き出でてコトバとなれば一切の現象展開して万物成る」とこう書いてあります。

 

 

 

ここに「一切の現象展開して万物成る」とあるその「一切の現象」とは、実相界の万(よろず)のものという意味であります。

 

 

 

実相界の万のものを神さまはどういうふうにしてお造りになったかといいますと「神の心の動きによって造られたのであって、地上の事物のように物質的の材料をもって造られたのではないのであります。

 

 

 

これは『生命の實相』全集第六巻の「萬教歸一篇(ばんきょうきいつへん)」の『創世記』の解釈の項に、その「実相の世界と宇宙創造」ということを詳しく説明してありますからそこをお読みくださるようにお願い致します。

 

 

 

普通仏教では、「実相」というものは空々漠々(くうくうばくばく)たるものであって何もないようなものである、と説かれておったのであります。ここが生命の實相とは少し異(ちが)うのであります。

 

 

 

どうも今までの仏教の説き方では、実相というと空(くう)のような、無のような捉(とら)えどころのないあやふやな、有るような無いような、有無を超越したようななんだかわけのわからないものである。

 

 

 

それでわれわれが悟りを開くと、そのあるようなないような、有無を超越したような、空々漠々たるような、そのなんだかわけのわからないものと一致すると、こういうことになるのでありますが、

 

 

 

そうすると、この空々漠々たる、あるやらないやらわけのわからないようなそういうものとーつになることをわれわれの念願とし、その空々漠々たるものと一つになった気がした時には、この人生の歩みというものが確乎(かっこ)たる足場を失ってしまうのであります。

 

 

 

空々漠々どうして生きたら良いかわからない、山ヘでも籠って迷いの世界から全然かけ離れてしまって、その空々漠々たる、あるやらないやらわけのわからないものと一つになってしまう、

 

 

 

これが悟りの境涯―これが人間のとるべき理想的生活法であるとこういう具合に思いやすいのであります。それで、仏教でも小乗の悟りの人はそういうふうな隠遁的(いんとんてき)な傾向がありまして、

 

 

 

幻のこの地上に浄土を成就する、地上に天国を建設するというふうなことは一つの下らない執着である。

 

 

 

地上の現世利益を成就することは仏教家の厭離(おんり)せねばならぬ我執であると考えている人も小乗の仏教者の中にはあるようであります。

 

 

 

ところが、生命の實相では「実相の世界」をたんなる空々漠々たる世界であるとしないのであります。

 

 

 

むろん、この「実相の世界」というのは、それではどんな世界であるか、ひとつ肉眼に見えるように見せてくれと、こう言われるとちょっと見せようがない。

 

 

 

というのは、このわれわれの肉眼で見る世界、五官に触れる世界というものはどういう構造によって成り立っているかといいますと、時間、空間という縦横の網目によって造られている。

 

 

 

ちょうど、写真版みたいな世界である。新聞なんかに写真版が載っていますが、あれには必ず縦横の網目というものが入っている。あの網目というものを消してしまったら、そしたらあの写真版は成り立たないのであります。

 

 

 

それと同じように、われわれがこの地上における五官に触れる世界を成り立たせるのには、この縦横の時間、空間という網目のスクリーンを通して、そうしてここに映し出さないとわれわれの感覚に触れる相(すがた)には成り立たないのであります。

 

 

 

ですから、「実相の世界」をこのままにここ見せてくれ、ちょっとも変わらぬように見せてくれと言われると、そうは見せるわけにゆかない。

 

 

 

ちょうど、写真版には縦横に網目が入って、そうして平面である。本当の実物の人間は色も形も奥行きもあって、そうして写真版の姿形とちょっと似ておるけれどもやはり違う。

 

 

 

厚みがない、あるいは色がない、柔かみがない、光ないというふうにいろいろ異(ちが)う。異うけれども似ている、という具合にこの実物と写真とは異うのであります。

 

 

 

それと同じように、この「現象の人間」というものは「実相の人間」とは異う、あるいはこの「現象の世界」は「実相の世界」とは異う、異いながら似ているのであります。

 

 

 

異うから、この現象界の万物は実相とは全然別であるかというとそうではない。この写真版に写っているこの相(すがた)は、実物と全然異うかというと、実物がなければこの写真版はできないのであります。

 

 

 

 

 

つづく

 

 

 

 

谷口雅春 著  「甘露の法雨講義」

 

 

 

 

 

 

★ 今日はいいのがネットにありましたので長くなりますが、参考に!

 

 

「罪は本来ない」ならどんな悪事も許される?

 

質問

 

生命の實相のお話を聞いて「罪は本来ない」ということを聞き、どうも釈然としません。罪がないというのなら、どんな悪事をしても許される気がしますが…。僕はこれまでに女をだまして体の関係を持ったり、キャッチセールスで人をだましてお金を取ったりしたことがあります。今は普通の仕事をしていますが、過去のことをときどき思い出して不快な気持ちになり、つい大酒を飲んで投げやりになってしまいます。嫌な過去を消し去りたいのですが、心を入れ替えて気持ちよく生きていくことはできますか。

 

 

(男性、佐賀県)

 

 

回答 

 

過去に犯した罪を心から懺悔し、神の生命が自分の生命であるとの自覚を得たとき、明るい人生を取り戻せます。

 

「罪がないというのなら、どんな悪事をしても許される気がします」というあなたのような疑問を抱いている人は結構多く見られます。どうしてそのような疑問が生じてくるのでしょうか。まず、大切な二つのことを知る必要があります。

 

その一つは、「汝自らを知れ!」という古聖ソクラテスの言葉のように、「自己が何者であるか」「人間とは何か」という最も重要な根本命題についてであります。

 

もう一つは、我々が住んでいるこの現象世界の成り立ち、すなわち”現象顕現の法則”についてであります。

 

 

さて、一つ目の「人間とは何か」という人間にとっての根本命題でありますが、これについては古来、仏教、キリスト教を始め、今日まで何百年何千年と普遍的に続いている様々な宗教の祖師達が、この「人間とは何か」を求めて厳しい修行の果てに悟りに到り、その真実を説いてきました。そして、生命の實相の創始者・谷口雅春先生も求道の末、『生命の實相』(全40巻、日本教文社刊)などの書物を通して、「人間とは何か」との真理の門を万人に開かれ、多くの人々が救われてきました。

 

生命の實相では立教以来、「人間の実相(神が創られたままの本当のすがた)は、神の子の生命である。神の子の生命は、罪も病も迷いも死も本来無い永遠生き通しの生命である。神の子の生命は円満完全大調和・無限である」と説いております。

 

そして、人間の肉体は、人間の実相である「神の子の生命」を輝かしていくための素晴らしい道具であると教えています。

 

では、この肉体という道具を使って、人間の実相である「神の子」の生命を輝かしていくにはどうすればよいのでしょうか。それは、「言葉」を一瞬一瞬、どのように使うかにかかっています。言葉という場合、生命の實相では思念(想念)・発声音・表情を合わせて言葉といいます。この思念・発声音・表情という言葉がなければ人間の生存及び生活が一瞬たりとも成り立ちません。従って、我々人間は「今」の一瞬をどのような言葉を使っていくかが最も重要になってくるのです。

 

罪の意識で悩むのは、本質に良心があるから

 

二つ目の現象世界の成り立ち、すなわち“現象顕現の法則”についてですが、この現象世界は先ほど述べたように言葉(思念・発声音・表情)の通りに展開するのです。これは仏教で説く「三界は唯心所現」のことであり、現象界は全て心が現す世界であるということです。

 

従って、あなたが「罪がないというのなら、どんな悪事をしても許される気がします」という論理は、この法則から照合して見ると、「悪事をする」という思念・発声音・表情である「言葉」の現れ(結果)として、実際に悪事となって現れるということになります。生命の實相で言う「罪が無い」というのは、「人間の実相である神の子の生命の自覚から観じられる“真実に存在する世界”」のことであります。そして、「人間・神の子」の真理に本当に目覚めた時、「悪事をしよう」等の「神の子らしくない心(言葉)」は「神の子には本来無い心」ですから起こりようがないのです。

 

このことをしっかり認識して下さい。あなたは、過去に犯した様々な「悪事」に当然現在も悩んでおられます。それは人間の本質である良心(神の子の心)があるからです。あなたに必要なことは、過去の行いを心から懺悔することです。それには次のような言葉を心に満たしていかれるといいでしょう。

 

「神の子を忘れていた心によって様々なことを犯したこと、ご迷惑をかけた方々に心よりお詫びいたします。本来の私はそのような罪を犯す人間ではなく、神の子の生命が本当の私の生命なのです。この真実を教えて頂きましてありがとうございます。今後は本当に人様のお役に立たせて頂きます」

 

その懺悔によって本来実在しない罪は消え、あなた本来の神の子の実相を輝かせながら生きることができるのです。どうぞ、『生命の實相』を繰り返しお読み下さい。必ずや、明るく輝いた人生を迎えられることでしょう。

 

 

★ 今日私が驚いたのが物質はないから無限供給ができるんですよ!という徳久先生の言葉でした。こんなに幸せで良いのですか、こんなに儲かって良いのですかという人がありますが、その人たちは不幸がある、失敗があると思っている人達です。實相世界は無限ですからもっともっと幸せに、もっともっと儲かって良いんですよ!と話しておられます。