◎ 「甘露の法雨講義」

 

 

 

◯  神と仏と霊

 

 

 

つづき

 

 

ではいよいよ講義に移りますが、最初は「神」という題のところであります。ちよっと読んでみます。

 

「神」

 

或る日天使(てんのつかい)生長の家に来たりて歌ひ給ふー

 

創造の神は、

五感を超越している 

六感を超越している

聖(せい)

至上

無限

宇宙を貫く心

宇宙を貫く生命

宇宙を貫く法則

真理

光明

知恵

絶対の愛

これらは大生命ー

絶対の神の眞性にして神があらはるれば乃(すなわち)ち善となり、

義となり、

慈悲となり、

調和おのづから備わり一切の生物處(ところ)を得て争うものなく、

相食(あいはむ)ものなく、

病むものなく、

苦しむものなく、

乏しきものなし。

 

神こそ「すべ」てにましまして絶対なるが故に、

神の外(そと)にあるものなし神は実在のすべてを蔽(おお)ふ。

存在するものにして

神によって造られざるものなし。

神が一切のものを造りたまふや

粘土を用ひ給はず、

木材を用ひ給はず

槌(つち)を用(もち)ひたまはず、

如何なる道具も材料も用ひ給はず、

ただ「心」をもって造りたまふ

「心」はすべての造り主

「心」は宇宙に満つる実質

「心」こそ「全能」の神にして遍在したまふこの全能なる神、

完全なる神の

「心」動き出てコトバとなれば一切の現象展開して萬物成る。

萬物はこれ神の心、

萬物はこれ神のコトバすべてはこれ霊、

すべてはこれ心、

物質にて成るもの一つもなし。

物質はただ心の影、

影を見て実在と見るものはこれ迷い。

汝ら心して迷いに捉はれる々こと勿れ。

汝ら「実在」は永遠にして滅ぶることなし。「迷い」は須臾(しゆゆ)にして忽ち破砕す

「実在」は実在にして苦悩(くるしみ)なし

「迷い」は捉われの相にして苦患(くげん)多し。

「実在」は真理

「迷い」は假相(かりのすがた)

実在は五官を超越し

第六感さへも超越して人々の感覺に映ずることなし。

 

 

 

これが「神」という一節であります。

 

 

 

ここには「神とはなんぞや」ということが書いてあるのであります。この「神」という言葉を仏教の人たちは時々お嫌いになる方があるのでありまして、

 

 

 

自分は仏を信じているのであって、生命の實相の神というふうなそういう多神を信ずるわけにはゆかない、とこういうふうにお言いになる方が往々にしてあるのでありますが、

 

 

 

この「神」という語(ことば)は日本の神道(しんとう)にもあり、それからまたキリスト教でも「神」と申しておりますが、

 

 

 

それでは「神」という語(ことば)はどういう意味かと申しますと普通「創造主(つくりぬし)」ということを意味して使われるのであります。

 

 

 

ところが、仏教は無神論(むしんろん)とも言われておりまして、「創造主」というものは存在しない。

 

 

 

釈迦が出てこられた当時、婆羅門(ばらもん)の教えには大自在天といわれる神があって、この大自在天がその大自在の力によってこの世界を造り固めたのであるというふうな教学が行なわれていたのであます。

 

 

 

その教義(きょうぎ)が、学説に対して、釈迦が鋭い批判の刃(やいば)を向けられまして、

 

 

 

この世界が神の造ったものであるならば、どうしてこのような悲惨な生存競争があったり、戦いがあったり、地震、風水害(ふうすいがい)のような天変地変(てんぺんちへん)があったりする、そういうわるい世の中がどうしてあるのであるか。

 

 

 

もし、そういう神があるならば、その神は慈悲のない神ではないか、愛のない神ではないか。もし愛があり、慈悲があるならば、その愛と慈悲とを、なぜ現わさないのであるか。

 

 

 

現わそうと思っても、現わすことができないのであるならば、そういう創造主なる神は無力の神である。

 

 

 

神は慈悲であるか、あるいは慈悲であると同時に全能の神であるならば、その慈悲を全能の力によって実現しなければならないのに、その慈悲を実現することができないとすればそれは無力の神である。

 

 

 

あるいは全能の力をもって思いのままにこの世界を動かしているとするならば、その思いのままの全能の力によって、このような不完全な、悲惨の充ち満ちた世界を造っている、

 

 

 

その神というのは慈悲の神ではない、冷酷(れいこく)の神である。どちらにしても、そういう不完全な、冷酷か、力量不足か、いずれにせよ、そういう矛盾に満ちた神というものはありえないのだ。

 

 

 

こういうふうに釈迦は説いて、この世の創造主というものを全然否定してしまったのであります。

 

 

 

そんなわけで、仏教は無神論であると普通言われているのでありまして、神という字があると、これは仏教ではない、仏の教えは神を説かないのである、とこういう具合に普通言われるのであります。

 

 

 

けれども、この神というのをそういうふうに解するのは、この世、この世界というものを物質によって造り固められた世界であると、こういう先入観念(せんにゅうかんねん)があるがためにそうなるのであります。

 

 

 

生命の實相においてはまず「物質はない」という一つの大いなる真理の前提があるのであります。

 

 

 

「物質は無である」こういう真理の前提があるがために、「この世」とか、「この世の創造主」とかいう場合の「この世」なるこの世は、決してこの物質のこの世でない、ということをまず知っておかなければならないのであります。

 

 

 

釈迦はこの物質の世と、その創造主を完全に否定してしまった後に、この世を造り固めた力というものはどういう力であるかというと、「無明(むみょう)」である、「迷い」である。

 

 

 

この世というものは忽然(こつねん)と現われた無明を起源(きげん)として因縁によっていっさいのものがこういう具合にできてきたのである、こういうふうにお説きになったのであります。

 

 

 

それで、この不完全な憂苦(ゆうく)充ち満ちたる物質世界というものは結局は迷いが現わしているのである、こういうのであります。これは単純なる創造主論よりもいっそう合理的であります。

 

 

 

つづく

 

 

 

谷口雅春 著 「甘露の法雨講義」

 

 

 

 

 

★ 谷口雅春先生もお悟りになる前に神を否定しておられます。

 

その神を否定した本を出版されて店頭にならべられた日にあの関東大震災がおこり本はすべて焼けてしまって灰になったと書いておられます。

 

そしてご自分で書かれた当時の本をあらためて読んでみると今の本(悟った後の本)とくらべて難しい事書いてあるしわからないところがあるね!

 

読んでわからないのは書く人がわかってないんですよ!笑!と自分の当時の本を言っておられます。

 

真理とは単純明解なようですね!かけ算の九九や、たし算、引き算、世界中どこでも同じです!笑!