今日の言葉    

 

◎ 肉体の苦痛はどこからくるか

 

◯ 本来存在しない迷い

 

 

夢の中にあなたは色々な事を見ます。それは目覚めてみれば本当には存在しないのです。それは心理学的に言えば潜在意識が心に描いたことの投映であります。また脳髄のオートメーション的な作用によって、目覚めているうちの記憶を自動的に組立てて、それを客観化してみているのであって、実際に存在する事ではないのです。

 

それと同じような過程を私たちは目覚めている間にもやっているのです。即ち「五官の心」の想念によって描いたところのものを「本来は存在しないのに」存在するかの如く如実に見るのです。

 

 

 

谷口雅春 著 「生活の知恵365章」

 

 

 

 

 

○今日は耳の故障の精神分析です。

 

 

 

耳は生物発達史の上から謂(い)えば、皮膚が「聴かんと欲する意志」によって変形して聴くに相応(ふさわ)しい専門器官となったものである。いわば「聴きたい心」の具象化したものである。

 

 

その耳に故障が起って来るのは、その耳を耳たらしめている「聴きたい心」に故障が起っていることが象(かたち)にあらわれているのである。すなわち、「聴きたくない」という心の具象化であるのである。

 

 

子供の耳に故障が起って来るのは、おおむねその両親のどちらかの「聴きたくない心」が子供に反映しているのである。往来の精神分析では、その人の病気を、その人本人だけを精神分析して治そうと試みているのであるが、生命の實相の精神分析では、その精神分析を「家族緑者(死後の霊を含む)全体」を「ーつの心」として取扱うのである。

 

 

人間は肉眼で見ると、個々別々の存在であるけれども、精神波動の上からいえば、ラジオの波が互いに交錯しているように交錯しており、特に波長の類似の波はー層親密に交錯してー体となっている。両親とその子の精神波動は最もよく類似の波長を持っているが故に、互いに交錯してー体となっている。

 

 

これが「子は親の心の鏡」として、親の心の状態が子供にあらわれて来る所以(ゆえん)である。特に親のうちでも母親の精神波動は子供に対して最も関心深いがゆえに、母親の心の状態が最も多く子供にあらわれ易いのである。

 

 

母親がその夫(子供にとっては父)に対して「聴従(ちょうじゅう)したくない心」をもっている場合には子供に中耳炎、耳だれ等があらわれて、いくら耳鼻咽喉科的治療を施しても治らない場合が多いのである。

 

 

かつて比叡山で講習会がひらかれたとき、その講習生のうちー人の男が起ち上って「自分の子供が中耳炎で、もう二年間も治らないがどうしたら治りますか」とたずねるから、「あなたは、夫隸仲がわるいでしょう」と私は言った。彼は肯(うなず)いた。「では夫婦仲をよくしなさい。

 

 

もう既に妻をゆるしたと念じなさい。もうすでに夫婦仲が好いのだと念じなさい」「はい」「それでは家へ帰って御覧なさい。その子供の中耳炎は治っているから」と私は言った。その後、その男からの報告によると、実際家に帰ってみるとその子供の中耳炎は治っていたのである。

 

 

この体験には、夫婦の互いの精神感応も含まれているのであって、夫が妻を完全に赦(ゆる)す気持になったとき、妻は夫に対する反抗心がなくなり、「夫の言うことをよく聴く」心が起ったので、その心が子供の耳に反映して子供の慢性中耳炎が治ってしまったのである。

 

 

先年、新潟市で講習会のあったとき◯◯耳鼻科医院の夫人が私の接待係として来られたが「真珠腫」という耳鼻科中の最難症で、非常に難聴であられたが私の講習を一心にきいているうちに、「今日の拡声器は大変上等だな」と思った。

 

 

そして新津の講習会に再び受講して新潟ヘの帰り途、汽車にのると乗客の声があまり喧(やかま)しいので、はじめて難聴が治ったと気がついて、途中下車して再び新津まで御礼に来られたことがある。

 

 

 

谷口雅春 著 「美と健康の創造」

 

 

★明日は頭髪の精神分析です。

 

 

 

★恥ずかしい話しですが、年のせいか少し耳が遠くなっていまして!笑!これは中年頃からどっちかの耳が少し遠いと会社の身体検査で言われていましたが、仕事にも生活にもまったく支障がないので、聴きたくない心の現れとも知っていましたがほっていましたが、今日改めて読んで見まして、妻を赦す?そうです!昔凄い腹立てた事がありますが何で腹立てたのか思い出せません!今日から和解の神想観してテレビのボリュウム小さくてすむように頑張ります!笑!

 

 

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★ 「生命の實相第七巻」を掲載しています。「生命の實相」40巻の中でも、第一巻、第二巻、第七巻、初めての人に進める時の本です。特に第七巻は正しい生き方を生活に、行動に活かす方法が書いてありますので、ここまでブログ読んできたがもう一つ良くならないとかいう方がおられましたらこれからのブログ読んでいただければ納得され、改善されるのではと思います!(注 このブログは頭注版 生命の實相を使用しています。新しい生命の實相も出ていますので、巻の内容が違いますのでお間違えないように!)

 

 

 

 

◎ 背水の陣を布(し)け

 

 

「背水の陣を布け」とは「知慧の言葉」の中に見いだされる金言(きんげん)である。諸君よ、いったんわれこれをなそう」と決して起ち上がったならば、「わが行くところ必ず勝利あるのみ」の覚悟が是非とも必要である。逃げ路をあらかじめ準備しておいて事にのぞむようなことでは、何人も全力を発揮することはできないのだ。

 

 

 

つづき

 

 

神は全存在であるから、誠ある人にのみその無限力を現(あら)わしたまうのである。神力の発現を視ることを得ざる者はその人の誠が足りないからである。誠は年齢によらず、金の力によらず心による。その人の心にしたがって価は定(き)まるのである。形を超えてその人の心を見給う神は讃(ほ)むべきかな。

 

 

 

時として長者の万灯(まんとう)よりも、貧者の一灯をば神が喜び給うのはこのゆえである。貧者なるがゆえにとて喜び給うにはあらず。また富者なるがゆえにとて厭(いと)い給うにもあらず。神はただその人の心に誠の足ると足らざるとを見そなわし給うのである。

 

 

 

年若くとも誠をもって一心に祈りて「生命の實相の神」の姿を見し人もあるのである。ただー冊の本書を手にせるだけでも、誠と誠、人の誠と神の誠とが肝胆相照(かんたんあいて)らすことができた人は、ただちに医薬を廃して病が癒えているのである。

 

 

 

またただ一回または数回本部を訪問せられただけで、人の誠と神の誠と昭々として照らし合うとき、本人はもちろん家人の病気さえも癒えているのである。誠の力の偉大なることかくのごとくであるけれども、世の中には誠を出そうとしても完全に誠を出しえない人々が多いのである。

 

 

 

これはなぜであるか。彼らは背水の陣を布かないからである。どこかに逃げ道が設けてあって全力を出しきらないでもそこヘ逃げ込めるからである。病気になれば薬がある。温灸(おんきゅう)がある。電気治療がある。マッサージがある―いかに多くの逃げ路が彼らの心の底に巣喰っていることであろうぞ。

 

 

 

だから、彼らはただひと筋に自分の生命力にたよりきることができないのである。多くの不完全な治療法を知っているがゆえに、最も偉大なる治療力たる自己の生命力にたよりきることができないのである。

 

 

 

医学博士小酒井不木氏は後に別の病気で廃(たお)れたとはいえ、一たんは自分の肺結核を自分の心力によって全快せしめた人である―氏はその著『闘病術』に、「第一期や第二期の結核患者は治り難いが、第三期の結核患者になるとかえって治りやすいのである。

 

 

 

これはすべての治療法に見放された結果、ただひたすら自分の生命力に頼るようになっているからだ」という意味を書いていられる。ただひたすら自分の生命力に頼る者は、あらゆる医療の道なき第三期の結核症さえも癒すことができるのである。その他の軽き病は言ううにたりない。

 

 

 

彼は背水の陣を布いてすべての退路を断(た)っているからである。もし、いっそう軽き病に罹(かか)りながら、それを自分の生命力で癒すことができないならば、その人はきっと背水の陣を布いている人ではなく、いろいろの医薬や健康法に秋波(しゅは)を送っている人に相違ないのである。

 

 

 

つづく

 

谷口雅春 著 「生命の實相第七巻」

 

 

 

 

★つい先日も書きましたが30数年前、医学博士の徳久先生に死にそうでしたが助かりましたとお礼を言いましたら、死にそうな人は助かるがそうでない人はなかなか助からないね!と言われたと、確かに助かる方法は生命の実相に頼るしかなかったですね!笑!この時は自分で「ありがとうございます」とそれから「大笑い」を気狂いみたいにやりましたが、

 

2年前の大病は気がついたら集中治療室で唯ボーとして練成だと思いましたが何も思い出せません。私がやったのはお医者様は神様の使いだ全てお医者様に任せて「まな板の鯉になろう」と決心しました。後は思いついた時父母に感謝だけでした。後で体験発表した時何にもしなかったんですか?と聞かれて今回は何もしなかったですね!笑!唯家族や道場、誌友の皆様の祈りによって助けられたと思いました!感謝!感謝!です。

 

 

★背水の陣も後少しで終わりますので、前回は差別心から見た霊界を載せましたので、今度は平等心から観た霊界を掲載しようと思います。