◎ 今日の言葉
◯ あなたは物質身ではない
神は「霊」であり、普遍的存在であり、神は全ての全てであるとしたならば、存在するものは悉(ことごと)く「霊」であって、たとい「物質」と見えていようとも「物質」なるものは何処にも存在しないと言わなければなりません。ではあなたの「肉体」は物質ではないのです。「霊身」なのです。
これが真理なのです。これが実相なのです。非真理が如何に自已を主張して「物質」の如く見えしめようとも、 非真理とは結局「ウソ」と云うことです。
実相が「霊身」であるかぎり、如何に、あなたの体が「肉体」と見え、「物質」と見えましようとも、それは「仮相」に過ぎないのです。それは仮装された相(すがた)であって本当ではないのです。
本当でないものはニセモノであり、ニセモノは「ウソ」であるのです。見せかけの「物質身」と云う仮装を脱(ぬ)いでしまえば、あなたは金剛不壊の霊身である事実が現れるのです。
谷口雅春 著 「生活の知恵365章」
★今日は朝早くから出かけました。バス停に綺麗な花がたくさん咲いていました。それを眺めていましたらこの花を人間は作れるだろうかと思いました。世界の科学者集めて何百億円かけても花びら一枚作れません、木にしても、草にしても、誰が作り咲かせているのでしょうか?
◎ 症状の宗教的分析
○ 腸捻転、腸狭窄、腸閉塞の精神分析
フロイドの『精神分析入門』や『生活心理の錯誤』を読んだ人なら、人間の潜在意識内に集積している色々の願望や、抑圧されたる感情が、色々の言い間違いや、書き違いや、失錯動作などを惹起(ひきおこ)す原動力になっていることがわかるのである。
普通ならば捻転すべからざる腸が捻転し、狭窄(きょうさく)するようには造られていない腸が狭窄するのは、それは或る意味からいうと潜在意識が、腸の機能を行う場合に、その動作をことさらに失錯させたところの「失錯動作」だと観ることが出来るのである。
何故なら、吾々の生理作用は広義における潜在意識が行っているのである。
だから、潜在意識の中に強烈に欲するところの歪んだ願望や、自己破壊の念願や、抑圧されたる感情がひそんでいる場合には、潜在意識自身のつかさどる生理作用を混乱させたり、歪曲(わいきょく)させたり捻転させたり、狭窄させたりすることは当然であるといわなければならないのである。
フロイド派の精神分析学者が、精神分析は単に神経症のみを癒し得ると信じているのは、少し遠慮勝ちすぎると思われるのである。
腸捻転や腸狭窄を起すのは、何とも言えない感情の激しいもつれを「腸九回(はらわたきゅうかい)しる」と形容する言葉もあるように、実際、腹綿(はらわた)の九回するような感情のもつれのあった直後又はその後に起るのである。
もっともこれらの発作は急速に生命に影響するので、在来のフロイド式の夢の分析や、刺戟語による患者の心理反応の強弱によって精神分析を行っているようなことでは間に合わないのである。
急速に患者の精神葛藤を弛(ゆる)めるように、憎んでいる人、怨んでいる人等を赦すように指導し、その「腸九回する」如き思いを直ちに感謝の念に置きかえるように誘導しなければならないのである。
或る時、腸狭窄を起して入院し、狭窄部を切除して約半月後、再び腸狭窄、やがて腸閉塞となって、吐糞(とふん)するようになった娘があったが、最初の手術後、回復がおそく、衰弱が激しいので、医師は再手術の見込なしと宣告したので、私の道場へその母が精神指導を求めに来たことがある。
その時、私は「すべての怨み怒れる人々を赦し、周囲のすべての人々、すべての事物はことごとく自分の魂を鍛えて下さるための神様の摂理である、と思い直して、間断なく“ありがとうございます”と心の中で唱えるようにしなさいと―患者に伝えて下さい」と指導したのである。
それからー週間後に小高いために「お山」と称する私の宅へ、その坂道を喘(あえ)ぎ登りながら母に連れられて登って来た若い婦人があった。
その若い婦人こそー週間前には腸閉塞、吐糞症で、命旦夕(いのちたんせき)に迫ると医師から宣告された患者で、私の指導の通り行ったところ、その日から腸閉塞、吐糞は治り、通痢があって、もう当り前の食事がとれるようになったので、あまり有難いのでお礼を申さねば申訳がないというので、まだ衰弱しているその身体を運んでお山へ登って来たというのであった。
谷口雅春 著 「美と健康の法則」
★明日は半身不随の精神分析です!
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★ 「生命の實相第七巻」を掲載しています。「生命の實相」40巻の中でも、第一巻、第二巻、第七巻、初めての人に進める時の本です。特に第七巻は正しい生き方を生活に、行動に活かす方法が書いてありますので、ここまでブログ読んできたがもう一つ良くならないとかいう方がおられましたらこれからのブログ読んでいただければ納得され、改善されるのではと思います!(注 このブログは頭注版 生命の實相を使用しています。新しい生命の實相も出ていますので、巻の内容が違いますのでお間違えないように!)
◎ 背水の陣を布(し)け
「背水の陣を布け」とは「知慧の言葉」の中に見いだされる金言(きんげん)である。諸君よ、いったんわれこれをなそう」と決して起ち上がったならば、「わが行くところ必ず勝利あるのみ」の覚悟が是非とも必要である。逃げ路をあらかじめ準備しておいて事にのぞむようなことでは、何人も全力を発揮することはできないのだ。
つづき
今後、世に出(い)でんとする若き人々よ。すべての「生命の實相」の家族たちよ。ーつの目的に全力を捧げて他を顧(かえりみ)ることなかれ。そのーつの目的を成就するためにすべての代価を支払えよ。半分の代価しか支払わねば、半分の価値あるものしかうることはできないのである。
小さな目先の快楽に心を奪われるな。「わが来れるはただ勝利を見んがためなり」と信じて他のいっさいを放棄せよ。自己の目標とする戦場に勝利を得んがためにシーザーが背後の船を焼き捨てたるがごとく、その目標より心を散らすすべての誘惑を焼き捨てよ。
全力を注いでただ目指すーつの勝利を得るために、一分の時間をも惜しんで自己改善と自己教養とでー歩ー歩自分を押し進めよ。これが勝利者の道である。自己に宿る無限力(神)を生かして常勝者となる道である。この道を歩む喜びを知るとき、他の喜びはすべて蜉蝣(かげろう)にすぎぬことが判るであろう。
「生命の實相」の信徒に、やや老年になってから歯科医になろうと、志(こころざ)した人があった。周囲の人たちは「そんなに年がいってから歯科医になれるものではない」と批評したのであるが、氏は周囲の批評を気にかけないで、ある日適当な木材があったのを歯科医院の看板を作りあげたのである。
氏は間もなく予定どおりに歯科医の検定試験に合格して、その時作った看板を今かかげていられるのである。氏にしてこの成功あるのは当然のことである。「わが軍旗の向かうところ必ず勝利を見ん」と言ったジュリアス・シーザーにも似たる氏の風貌がうかがわれるのである。
諸君よ、自己を信ぜよ。自己に宿る神を信ぜよ。自己に宿る無限力を信ぜよ。この賢き、誌友のごとく、最初より「勝利」の看板を造って掲(かか)げよ。そのほかの事は決してありえないと信ぜよ。決して最初から「失敗」の看板を掲げて歩むな。
喀血もしないのに、喀血したときの用意だと薬をたずさえて旅行する者は、最初から失敗の看板を掲げて歩むものだ。必要な力はすべて時に応じて神が与えてくださるのである。神はここに見よというがごとくには外にあらず、内にあるのだ。内の力に全然頼りきるとき内から無限力が発揮されてくるのである。
つづく
谷口雅春 著 「生命の實相第七巻」
★ 谷口雅春先生はひとつの事を10年やれば博士になれると言われました。英語でも毎日ひとつ単語を10年覚えれば英語が読めるようになると!