今日の言葉

 

 

◯ 病気に重い軽いはない

 

「生命」は物質そのものにはないのであって、「生命」が物質を支配するのである。物質を生ぜしめ、それを仮に物質として、吾々に感ぜしめているのも「生命」の力である。物質は「生命」の影であって実体ではないのである。

 

「生命」は霊的実体であって金剛不壊であり、細菌やヴィールスに冒されざるものである。それが冒されるようにあらわれるのは、本来の霊身を「物質身」として翻訳して感ずるところにあるのである。

 

自己を「物質身」と見、病み且つ死するものであると見るのは、「妄心」の夢であるのである。夢は醒めるものであり、「夢の病気」には重いも軽いもないのである。

 

軽い病気が治るならば、重い病気も、同じ軽さで治る筈である。どちらも夢であるのだから、その夢からさめさえするならば、病気に重い軽いはなく、どんな病気でも消えてしまうのである。

 

 

 

 

 

★本当にその通りですね!今良くわかります。実相が本物で物質が影と思えるからです。今朝の先祖供養の最中にフトそう思えるようになりました。本当に奥が深いですね!又凄いですね!楽しみです。有難いですね!笑!

 

 

 

 

 

◇ 正しい生き方をすると、生活全般あらゆる面がスムーズに行き、又病気、あらゆる問題も解決していくことがわかってきましたので「生命の實相」から掲載しています。今日からは「美と健康の創造」の中から目や鼻や心臓等各病気の症状の精神分析を掲載します。

 

 

 

◎ 目上の病気の精神分析

 

 

 

鼻を自己又は「自我」の心の象徽であるとすると、鼻の上部は眼の高さになるのであって、眼の高さを自我の限界として判断するのである。だから眼は自己と同じ高さのもの即ち妻又は良人をあらわすのである。

 

 

眼の周辺、薄黒く力なく、乱れたる感じのする者は、男女(夫婦を含む)間に苦労があるものだということを象徴している。こんな場合に、既婚者であれば、「夫婦仲が悪いですね」と言えば適中することになるのである。

 

 

眼の外側、魚の尻尾のようになっているところは、観相学上「妻妾宮(さいしょうきゅう)」といわれていて、その人が男子であれば左は本妻、右はそれ以外の女性をあらわすことになっている。

 

 

眼から上は、目上を象徴する。即ち自己より年長者又は上位者との関係をあらわしているのである目上のー番上位は「神」(髪)である。神を尊敬する者は髪が豊かなのが普通である。

 

 

仏教僧侶はこの世界に創造主(神)などはないと神を否定し去りたる者であるから、髪を否定して、剃髪(ていはつ)しているのである。現代の僧侶は必ずしも「神」を否定せず、神仏混淆万教帰一的立場をとっている者が多いから僧侶でも必ずしも剃髪を事とせず、美髪をたくわえている者もある。

 

 

自尊心強きものは頭頂部が、早く禿げるのである。「天上天下唯我独尊」の悟りを得るを目的にしている禅僧には多く顱頂部が突出して、先ずその位置が禿げて輝き出すのである。

 

 

これは自尊性はなはだ強く、「自ら輝きたい」心を象徴しているのである。自尊性はなはだ強きものは、頑固にして、柔軟の性を欠くがゆえに、血管等は柔軟性を失って血管硬化症にかかり易いのであり、頑固なものは、心の圧力も高いゆえに高血圧を患うことにもなり、みずからの「我」の強さによってついに斃(たお)れるとにもなるのである。

 

 

頭部は概して目上(眼の上部)であるがゆえに目上(年長者、上位)者との関係が象徴されてあらわれる。目上に対して反抗心を持ち、或いは不平を持つものは頭部の病いにかかる。

 

 

母親が良人又は舅姑(しゅうとしゅうとめ)又は兄姉(義兄姉を含む)に対して反抗心を持つ場合、その子供が胎毒と称して激しい湿疹にかかることもある。

 

 

こんな場合サルフ剤もペニシリンも何等効果をあらわさないで「原因不明」として医家から抛擲(ほうてき)されたにかかわらず、生命の實相に触れて、不和であった目上(長上者)に対してお詫びの心と感謝の心を起すように誘導されて、忽然(こつねん)としてその湿疹が癒えてしまった実例もある。

 

 

大体、肉体のー部が腫れるのは、「フクレル心」の象徴である。不平は「フクレル心」であるから、人が不平の心を起したならば、「脹(ふくれ)っ面」をするのでも、不平の感情が肉体をフクレサスカがあることは明らかである。

 

 

然(しか)るに、頬をフクラスには限度があってその程度のフクレ方以上に「小平の心」が内攻している時には、病気の姿をもってフクレて来るのである。フクレる場所によって、それが誰に不平をもっているのかを判断するのである。

 

 

眼より上部に、腫れ物その他のフクレル病いが生じた場合は、目上(長上者)に不平又は反抗心があることの象徴としてあらわれているのである。

 

 

つづく

 

 

次回は「口腔の疾病の精神分析」です。

 

 

 

 

★面白いでしょう!目の上は目の上の人ですって、でも納得ですね!真理は単純明解らしいです。だから谷口雅春先生はどんな重要な事でも一行サラと書いてありますので読む人が注意して読まないと見逃すようです。例えば先祖供養の本、タイトルが「人生を支配する先祖供養」タッタこれだけです。先祖供養が人生を支配しているという事です。御先祖様を大切にする事が人生が良くなるという事です。本当に私は一生懸命やり出して約30年下手な仕事しているより先祖供養してればそれ以上の仕事ができるという事を実感しています。そのくらい重要な事でも、タイトルにタッタ11字です!笑!

 

 

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★ 今日からは「生命の實相第七巻」を掲載させて頂きます。「生命の實相」40巻の中でも、第一巻、第二巻、第七巻、初めての人に進める時の本です。特に第七巻は正しい生き方を生活に、行動に活かす方法が書いてありますので、ここまでブログ読んできたがもう一つ良くならないとかいう方がおられましたらこれからのブログ読んでいただければ納得され、改善されるのではと思います!(注 このブログは頭注版 生命の實相を使用しています。新しい生命の實相も出ていますので、巻の内容が違いますのでお間違えないように!)

 

 

◎ 「生命の實相第七巻」

 

はしがき

 

つづき

 

 

それについてこんな話がある。わたしが兵庫県竜野市での講習会にいったさい、その地の講習会員中の幹部N氏が次のような体験を述べられたのである。N氏は肺結核、腸結核、胃下垂等にかかって栄養は吸収できず、身体瘻痩(しんたいるいそう)、症状はますます悪化する一方であった。

 

 

 

しかも『生命の實相』全巻は六年間の病床中繰り返し読んでいるけれども病状は一向軽快しないのであった。

 

 

 

しかし一日として読書は止めなかった。ある日、本巻に収録してある「生活篇」を読んでゆくうちに、"背水の陣を布け"の項目があり、そこに「諸君よ、全カを出し切れ、そこにこそ無限の力が湧き出ずるのである(64ぺージ)とあるのに気がついた。

 

 

 

そして自分は全力を出しているのであろうか。絶対安静でゴロゴロ病床に仰臥ばかりしている自分は全力を出していない、そこに病状の好転しない理由があると気がついたのである。

 

 

 

さらに読んでゆくと、断じて失敗を予想せざる者はついに勝つ"の項目において、「諸君よ、何をあなたは躊躇(ちゅうちょ)するか!諸君の内には無限の潜在能力が宿っていて、諸君がどれだけでもそれから汲むことを待っているのだ。

 

 

 

これを信じて汲む者は勝つ者だ。健康でもそのとおりだ。なんじの病床を今あげよ。断じて起て。断々乎として、自己に病なきことを信ぜよ。そしてそのとおり行なえ」(150ぺージ)と書いてあるのを読んだ。

 

 

 

N氏は『生命の實相』を六年間読んでいて、その説くところの「人間本来無病」の真理はもうすでに悟ったのであるから、いい加減に病気が消えたらよさそうなものであるのに、なぜ自分の病気が消えないのかしらと思っていたのである。

 

 

 

ところが氏は今自分を省みて、「人間本来病気は無い」の真理を自分自身は少しも知っていなかったことに気がついたのである。ただ氏が知っているのは、『生命の實相』の本には人間本来病気はないと書いてあると知っていたにすぎない"と気がついたのである。

 

 

 

「病気は無いと書いてあると知るだけではなんにもならない、自分自身に病気が無いという神人Godmanの実相を自分自身が如実に知らねば役にたたない」と気がついたのである。

 

 

 

如実に「病気がない」と知ったらどうするか。N氏はここまで考えて再び『生命の實相』の文章に眼を移した。すると「なんじの病床を今あげよ。断じて起て。断々乎として自己に病なきことを信ぜよ。そしてそのとおり行なえ」という文章が力強く氏の心を打ったのだ。

 

 

 

信念は行動化しなければならない。知は行によってはじめて具体的な力を得るのだ。N氏はさっそく文字どおり六年仰臥の病床を取りあげ、起ち上がって、健康人と同じ生活を送ったのであった。それ以来今日にいたるまで風邪一つひいたことのない健康さだという。

 

 

 

これは真理の「知」が、「信」となり、更に「行」となって生活化したとき自已のものとなった実例である。実例は治病のことを挙げたが、本書は治病を目的としたものではないそれは人生百般の事象に対していかに生きるべきかの指針であり、健康問題はその応用の一面にすぎないのである。

 

 

 

『生命の實相』全巻のうちでももっとも広い範囲の読者から歓迎された部分であって、『光明の生活法』と題するポケット判の単行本ともなっているのである。この書が今度頭注版となって詳しい説明を加えて出るのを機会に、さらに真理を生活化し救われる人々の多からんことをわたしは希わずにはいられないのである。

 

昭和三十七年十月二十日

 

著者しるす

 

 

谷口雅春 著  「生命の實相第七巻」

 

 

 

★ 藤原先生は「生命の實相」の本は料理に例えるなら、料理を作るレシピであると説いてあります。レシピをながめても、味もわからなければ、腹もふくれません、レシピは作って食べてみてはじめて美味しいか、不味いか、わかり、腹もふくれます。という事です。!笑!