◇ 正しい生き方という事で病気治しが主でしたので、趣向を変えて色々の事を掲載していこうと思います。まず、男性と女性について
◎ 男と女の問題
◯ 愛は義務を喜ぶ
愛には義務を伴う。義務を自覚しないで愛するというのはウソであるそれはただ快感原則に引きずられているだけである。従って子供を産んではならないというような男の愛また結婚を回避したいような口吻をもらす男の愛はニセモノである。
真実の愛は、自分の責任を回避するというようなことはない。一切を自分の責任で背負うというのが本当の愛である。恋愛は性交につながり、結婚も性交につながる。
しかし結婚なき恋愛の性交は、その人の全生活となることは出来ない。全生活とならない出来事は「遊び」であることが多いのである。
遊び、は真剣になることはできない。遊戯化されたる恋愛が、途中で失敗することが多いのは、それが全生活につなからないからである。
結婚生活はその人の全生活につながる従って全生活的な責任と義務とを生ずる。責任と義務とを生じた場合、「縛る」感じがするのは当然のことである。
しかし結婚の責任と義務とを生じない恋愛は、自由である代わりに、それは「放埒」となるのである。
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★ 今日から正しい生き方ということで、天皇陛下のことについて書いていこうと思います。すべての問題、病気、経済、夫婦問題も国家の中心である天皇の事がわかる必要があります。そのくらい大切だという事です。戦後の我々は陛下の事はほとんど教わっていませんし、むしろ悪く教わっているかもしれません。正しい天皇陛下を知る事が問題解決の要になります。
◎ 天皇は身を捨てて國民を救われた
天皇がどんなに、一身を犠牲にしてでも、日本國民をたすけたいと思われたかということについて、以前鈴木終戰内閣の書記官長だった迫水久常氏(さこみずひさつねし)が、『終戰の眞相』と題する冊子をものして送って來られましたが、
その中に、その席に参列した内閣書記官長の記録として、終戰直前の御前會議の模様が詳しく語られていますので、從來の第三者復聴きの断片的な記録をもととして天皇の御徳につき話したこともありますので、その多少の誤聞を訂正する意味もあって、最も信憑し得るものとして次にそれを引用させて頂きます。
この記録は、長崎に二發目の原子爆彈が投下され、原子研究の権威・仁科博士が廣島の原爆の現地視察の後、「残念ながら原子爆彈に間違いありません」と答申して、「原爆所有國に對してはとても抗戰できない」と驚天動地の脅威を専門家が感じていた直後の御前會議の記録であります。迫水氏はこう語っています。――
「御前會議は八月九日夜十一時から開かれました。列席者は、總理、外務、陸軍、海軍の四大臣、陸軍参謀總長、海軍軍令部總長、平沼枢密院議長の七名が正規の構成員でありまして、陪席員は、私、陸海軍の軍務局長、内閣綜合計各局長の四名、合計十一名であります。正規構成員七名の中(うち)、現存者は豊田軍令部總長だけであります。
會議場は宮中防空壕内の一室で約十五坪程のお室でありました。地下十米(メートル)であります。一同席について陛下をお待ちしました。
陛下は足取りも重く、お顔は上氣したるが如くにて入って來られました。今も深く印象に残っておりますのは髪の毛が数本額に垂れておられた事です。
會議は總理が司會致しまして、先ず私がポツダム宣言を讀みました。日本に耐えがたい條件を讀むのでありますから全く堪まらないことでした。
次に外相が指名されて發言しました。その論旨はこの際ポツダム宣言を受諾して戰爭を終わるべきであるということを言葉は静か乍ら断乎申されました。
次に阿南陸軍大臣は、外相の意見には反對でありますと前提して、莊重に涙と共に今日までの軍の敗退をお詫びし、併し今日と雖(いえど)も、必勝は期し難しとするも必敗ときまってはいない。
本土を最後の決戰場として戰うに於いては、地の利あり人の和あり死中に活を求め得べく、若し事志と違うときは日本民族は一億玉碎し、その民族の名を青史に止むることこそ本懐であると存じます、と言われました。
次の米内(よない)海軍大臣はたった一言、外務大臣の意見に全面的に同意でありますと言われました。平沼枢密院議長は列席の大臣、總長にいろいろ質問されたのち、外相の意見に同意であると言われました。
参謀總長・軍令部總長はほぼ陸軍大臣と同様の意見であります。この間約二時間半。陛下は終始熱心に聞いて居られましたが、私はほんとうに至近の距離で陛下の御心配氣なお顔を拜して涙のにじみ出るのを禁じ得ませんでした。
一同の發言の終わったとき、私はかねての打合せに從って總理に合図致しました。
總理が立ちまして徐に『本日は列席者一同熱心に意見を開陳致しましたが、只今まで意見はまとまりません。しかし事態は緊迫して居りまして全く遷延を許しません。誠に懼れ多いことでは御座いますが、ここに天皇陛下の思召しをお伺いして、それによって私共の意見をまとめたいと思います』と述べられ静かに歩を移して陛下の御前に進まれました。
その時、阿南さんはたしかに『總理』と声をかけられたと思います。併し總理はおきこえになったのか、おきこえにならなかったのか、そのまま御前に進まれまして丁寧に御禮をされまして『只今お聞きの通りで御座います。何卒思召しをお聞かせ下さいませ』と申し上げました。
陛下は總理に對し席に帰って居るようにと仰せられましたが、總理は元來耳が遠いためによく聞き取れなかったらしく、手を耳にあてて『ハイ』というふうにして聞きなおしました。この間の図は聖天子の前に八十の老宰相、君臣一如と申しますか何とも言えない美しい情景でありました。
總理は席へ帰りました。天皇陛下は少し体を前にお乗り出しになるような形でお言葉が御座いました。緊張と申してこれ以上の緊張は御座いません。
陛下は先ず『それならば自分の意見を言おう』と仰せられて『自分の意見は外務大臣の意見に同意である』と仰せられました。その一瞬を皆様、御想像下さいませ。場所は地下十米の地下室、しかも陛下の御前。静寂と申してこれ以上の静寂な所はございません。
陛下のお言葉の終わった瞬間、私は胸がつまって涙がはらはらと前に置いてあった書類にしたたり落ちました。私の隣は梅津大將でありましたが、これまた書類の上に涙がにじみました。私は、一瞬、各人の涙が書類の上に落ちる音が聞こえたような氣がしました。次の瞬間は號泣であります。
涙の中に陛下を拜しますと、始めは白い手袋をはめられたまま親指を以てしきりに眼鏡をぬぐって居られましたが、ついに両方の頬をしきりにお手を以てお拭いになりました。陛下もお泣きになったのであります。
建國二千六百余年、日本の初めて敗れた日であります。日本の天皇陛下が初めてお泣きになった日であります。ああ何とも申す言葉がございません。
つづく
谷口雅春 著 「古事記と現代の預言」
★ 戦争する時も天皇陛下は反対されました。後で出て来ますが、最後の最後はやはり陛下に頼るしかないという事です。陸軍は最後まで玉砕を叫びますが、陛下は国民の命を一人でも救い国家を残す為に決断されます。たえがたきをたえ、しのびがたきをしのび、自分の命はどうなっても良い国民と国家を救う事を第一に選択されます。