ー 病気になる心と癒す心 ー
「人間が健康にあこがれるのは本来人間は健康につくられているからなのです。この「本来の健康な相(すがた)」を「実相」と云うのです」
(新装新版「真理」第一巻)
◎ 十二指腸癌を克服
岩手県◯◯市 ◯◯◯◯
◯ 導がれるようにして病気が見つかる
かかりつけのお医者さんから、「もう2年くらい検査していませんから、血液検査をしてみますか」と勧められたのは、昨年5月のことでした。検査の翌朝、その先生から電話がかかってきました。「大変な状態だから、すぐに入院の準備をして来てください」
それまで風邪を引いたことがほとんどなく、薬も飲まず、健康そのものだった私はとてもびっくりしました、先生が言われるには、血液の中のある成分が正常値の3分のー以下になっているというのです。当の私は、最近は少し疲れがひどいかなと感じる程度で、何とも平気でした。
すぐに入院させられて体中を検査したのですが、病名がよく分かりません。最初のー週間はおとなしく横になっていましたが、次の1週間は、日中は家に戻って友達とお茶を飲んだりランチを楽しんだりして夕方から病院に泊まりに行っていました。
それからー週間ほどたって、先生から病名を告げられました。十二指腸癌です。癌の中でも東北地方では0・06%か発症しておらず、どんな治療方法がよいか分からないというのです。
息子が心配して、国立がんセンターに行くよう勧めてくれました。ちようど娘が東京に住んでいることもあって、かかりつけのお医者さんに相談すると、入院の手はずを整えてくださいました。
こうして昨年7月、東京のがんセンターに入院しました。本当にありがたいなと思うばかりです。お医者さんが勧めてくれなければ病気にも気づかなかったし、東京の病院でもベッドの空き待ちが数カ月もあるというのに、私の場合はなぜかスーッと入院することができたのでした。
◯ 感謝ばがりの生活になる
8月になって手術を受けました。十二指腸癌を取り除く手術はできないし、体力的にも無理だと言うので、胃から腸にかけてのバイパス手術となりました。手術は無事に成功したのですが、その後は抗癌剤で半分死んだように体が衰弱していきました。
とうとう8月13日、体が硬直して意識不明になりました。2時間半ほどして、何とか意識を回復したそうです。それから少し元気になったのですが、5日ほどすると今度は薬のアレルギーが出て体中が腫(は)れ、かゆくて一睡もできなくなりました。
私は苦しくてどうしようもなくなり、◯◯◯◯先生に電話で相談しました。すると、「病気は過去の悪想念、悪感情が消えていくすがたですよ」と励ましてくださり、感謝の大切さを教えてくださいました。神癒祝福祈願で祈ってくださったり、『読々甘露の法雨』のお守りも送ってくださいました。私はお守りを枕の下に入れ、聖経をー心に読みました。すると、自然に体調が落ち着いていきました。
病室は4人部屋でした。私は同室でお友達になった人たちも“神の子さん”と礼拝し、励ましたり、楽しく笑えるように言葉をかけて過ごしました。亡くなった主人にも心から感謝しました。そうして感謝ばかりの生活を送るうち、8月末には地元に戻って抗癌剤治療を続けることになりました。
治療はつらく食事も喉を通りません。入院して治療を受け、自宅に戻る、その繰り返しでした。そんな中、11月になって私の心が大きく変わったのでした。
「80歳まで生きてきたのだから、これからは“儲けもの”の人生。生きているだけで有り難い。だから、自分が思うように生きていこう」
そうして、お医者さんに「もう抗癌剤の治療はしないことに決めました」と話しました。それで薬を止めてしまったのです。すると、それから自然に食欲が戻りました。本当に不思議でした。
12月、病院に検診に行くと、先生が腕組みをしたまま何も喋らないのです。やっと口を開くと、「癌が無い、消えた。どこに行ったんだろう」と言うのでした。
今では、雪かきするのも平気、ご飯もおいしく頂けるほど元気になりました。すべて「生命の実相」の御教えのおかげです。神様に導いていただいたことに感謝でいっぱいです。この感謝の思いで、これからの人生を歩んでいきます。
★国立がんセンターにすぐ入院できたとありますが、こういうのはよくある話です。私も2年前死にそうになった時、市立病院で命は一応助かったのですが、薬の使い過ぎで100万人に一人という難病にかかり、大学病院に転送されそこで治療してもらい治って再び市民病院に戻った時、私は意識がずーとない状態でしたので、お医者さんもナースの方々も知りませんでしたが、病院中のお医者さんは全て私の事知っていて良く助かったなと見にきました!笑!ナースの方が貴方が苦しんでいるのでおかしいなと思い先生に報告したら普段はほとんどいない時間に全ての先生がいらして貴方は助かったのよと教えてくれました。また、こういう人は助かるのよね!と話されました。笑!ここが不思議なんですね。
事故なども一分一秒違えばおこらないのに、わざわざ事故にあうように行く人と知らないうちにあわないように行く人にわかれます。「類は類をよぶ」という法則があります。酒飲みは酒飲みと仲良くなり、釣り好きは釣り好きと仲良くなります。よく争ったり、怒ったりして衝突する人は、事故にあうようになります。では衝突を避けるには「類でないものは反発する」という唯一の法則があります。これが感謝です。「ありがとうございます」と常に感謝している人は悪い事とはあわないので、良い事しかきません。磁石のプラスとマイナスの原理です。これも正しい生き方でしょう。常に感謝してる人、明るい人、大笑いしましょう!「生命の実相」という本を読んでると一人でに正しい生き方になるのではないでしょ
うか!
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★ それでは正しい生き方という事で先ず国を愛することから、国を愛し、祖先を愛し、父母を愛してないようでは病気だけではない、色々の問題が出てくるのは当然ではないでしょうか?先ずは日本国の理想に目覚めようということで、古事記の解釈から
◯ 「成(な)る」と「鳴(な)る」とは語源が同じ
「天地(あめつち)の初発(はじめ)時高天原(たかあまはら)に成りませる神の名(みな)は天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」とありますが、天地がまだ初発(はじめ)である時にー 「初発」というのは、必ずしも時間的流れの初(はじめ)という意味では無いのでありまして、天地(てんち)の根元(こんげん)の状態をいうのであります。
ー中略 ー
「高天原に成りませる神の名は…」とありますが「成る」というのは、神様がお成り遊ばされるという意味にとり、高天原においで遊ばされたというふうに解釈する人もあるけれども、本当はそうじゃないのです。
「なる」というのは鳴り響くという事です。「高天原に成りませる」というのは宇宙全体に鳴り響いておられたという意味で、その神様が、「天之御中主神」であると書かれているのです。
ー 中略 ー
この「高天原に成りませる」とあるのは「成りませる」と現在活用で書かれていることに注意すべきです。神が宇宙辺満していられるのは永遠の現在なのであります。その辺満の神様が「天之御中主神」であります。
◯ 宇宙の本源の神には名はない
しかし宇宙の一番初めの元の神様に名前は無いのであります。我々の名前は、人間にはいろいろの人間があり、それの區別を附けなければならないので、名無しでは困るからいろいろ名前を附けてあるけれども、元の神様は一つだから名前なんか無いのであります。
神様に名前を附けるのは、人間が區別のために名前を附ける。それで、いろいろの宗教に従ってその本尊の神様に對する名前の附け方が違うのです。
それで、或る場合には「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」と名附け、或る場合には「阿彌陀」と名附け、或る場合には「エロヒムの神」と名附け、或る場合には「ゴッド」と名前を附けたりしています。「名前が違うから別の神様である」と、こう勝手なことをいうのであります。
本來名前がない本源の神様に、勝手に名前附けておいて、「これは別の神である」というのは變(へん)であります。南瓜(かぼちゃ)でも、その植物の果実そのものには名前はない。それなのに「かぼちゃ」という人もあり、「なんきん」という人もあり、「とうなす」という人もある。
ー 中略 ー
この「天之御中主神」だけは「之」が書いてあるのは、本源の神様に「名前なし」であって、ただ「宇宙の御中に主なるところの神」であるという説明の意味が名前の如くあらわされているのであります。
◯ 未發之中(みはつのちゅう)に就(つ)いて
アメノミナカの「中(なか)」というのは、この天球(てんきゅう)の眞中(まんなか)だけに在(ま)しますのであるかというと、そうじゃないのであって、この「中」というのは、シナの『中庸(ちゅうよう)』という書物に「喜怒哀楽(きどあいらく)未(いま)だ發せざるを中(ちゅう)と謂(い)う。發して節(せつ)に當(あ)たるこれを和と謂う」という具合に書かれているのでありますが、その「喜怒哀楽未だ發せざる中と謂う」その「中」が天之御中主神の「ミナカ」であります。
これを「未發の中」というのです。「發せず」というのです。「發せず」というのは「まだ起こらない」ということで、「喜怒哀楽未だ發せざる」とは、つまり、現象が未だ起こっていないその本源なるものが「中」なのであります。
「中」は偏(かたよ)らないのであります。現象が現われるということは、すべて、或る自己限定をして偏りに依って現われて來るのです。 例えば○が現われて來るのは、これは、○という形に偏っているからあらわれているのである。それは△でもなければ□でもない。○を離れ、□を離れて、△に偏っているから三角形があらわれている。或るものに偏らなかったら形というものは現われて來ないのです。
「中道不偏」であって、「中」は偏らない。偏らないと、形というものは出て來ない。谷口の顔になるためには、谷口の顔に偏って自己限定しているのである。他の人の顔を全部まぜ合わせて最大公約数をとって、誰にも偏らぬ平等の顔になったら、谷口で無くなってしまうのであります。それで、この「中(みなか)」というのは「偏らないところの本源」という意味であります。で、「喜怒哀楽が未だ發せず」というように、或る形に未だ發せざるところの「本の偏らない處の本源」が、「中(みなか)」即ち「ミナカ」であります。
で、宇宙の本源で、何處にも偏らない、未だ一切の姿に發せざる「中」なる所の、主なる神様が天之御中主神であるわけです。
この主なる神様がキリスト教で「主よ、主よ」という神であります。キリスト教と、神道と非常に違うように思う人もありますけれども、生命の実相式に解釋すればすべて同じように一致して爭いがなくなるのです。
英譯の舊約聖書(きゆうやくせいしょ)を見ると、「主」というのはロード(Lord)という英語が書いてあります。このロードというのは、日本語に譯すると、「主」であって、「宇宙の御中に主なるところの神様」である譯です。
「主」という字は「坊主(ぼうず)」の「主(ず)」という字、「天台座主(てんだいざす)」の「主(す)」という字で明らかでありまして「主(しゅ)」は「ス」であります。宇宙の本源の言(コトバ)が「ス」である譯です。
未だ發せざる「未發(みはつ)の中(ちゆう)」の゛ス゛は發して聴(き)こえる「ス」という字ではなくて、文字にも表わすことができない。聲(こえ)に發することもできない萬籟寂(ばんらいせき)とした眠っている時の゛スヤスヤ゛の聲なき聲の゛スー゛であります。
この「未だ發せざる」無聲(むせい)の聲の゛スー゛が分化して(自己限定して)コトバとなると、アイウエオ、カキクケコ、サシスセソ…と五十音の發音を我々はするのであります。
この五十音が未だ發せざる時に、我々は如何なる聲を發するのであるか?「耳ありて聞く者は聞け」という譯であります。肉の耳では聞こえないのですが、「五十音未だ發せざる時の聲は如何(いかん)?」
といえば禅宗の問答みたいになりますが、これが「父母未生以前(ふぼみしよういぜん)の本來の面目」であり、「隻手(せきしゆ)の聲(こえ)」であり、「闇(やみ)の夜(よ)に鳴(な)かぬ烏(からす)の聲聴(こえき)けば生(う)まれぬ前(さき)の元(もと)ぞ戀(こい)しき」の元であり、それが天之御中主神であります。
つづく
谷口雅春 著 「古事記と現代の預言」
★宇宙の本源の神には名はない ! 日本の天皇には名前がありません、今上陛下は明仁(あきひと)で我々みたいに名前がありません!これでもわかるように天皇は地球の宇宙の中心であられるという事です。天才アインシュタインが日本に来た時日本に天皇がおられる事に驚き感謝し、世界が戦争で疲れて平和を望む時世界に中心者が必要となる、その方こそ天皇であると言っています。谷口雅春先生は天才アインシュタインだからこそそれがわかったのだろうと話されています。日本の唯一の宝、芸術、それはが陛下です!