今日のことば
その所に於いて生き切れ
すべての人は神の子であるから、必ず何か特殊のその人でなければならない才能が宿っているのである。その才能を伸ばしさえすれば必ず自己は幸福となり、世界も亦、それによって幸福を得るのである。その才能とは何であるか、自己に与えられている才能が何であるかが自分に解らないときには、現在の仕事と環境とに於いて、自分の出来るだけの力を盡(つく)して精出せばよいのである。全て既に与えられている所のものを充分感謝してそれを生かせば、必ずそれは眞の自己の才能を伸ばす所の踏み台となり、第一歩となるのである。
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★ 今日のことば 以前載せたかどうか確認していませんが、「神の子であるから、必ず何か特殊のその人でなければならない才能が宿っているのである。」この言葉にひかれ掲載しました。もう私なんか人生の終盤ですが、そう思いますね。ずーと以前から色々の職業の人みながら、不思議だな私には絶対できないという職業の人又色々な職業の人がいてくれないと不便ですになりますからね、世の中上手く回ってるんだなと思い見ていました!笑!
生命の実相第二巻
(五)読んで魂の歓(よろこ)ぶ話
つづき
これを先刻のドレッサー女史自動書記の霊界通信に対照すると非常におもしろいのであります。肉体を捨てて霊界ヘ帰った霊魂自身の言葉として、「われわれは決して影のようなものではなく、ーつの実在で、姿が存在し、同時に心が存在し、よって心の創造した事物は、心がその物の存在を認めている間は実在を続けるものである。
われわれは実在しているといっても、諸君のごとく物質の形態をもってはいない。しかし霊は物質に比し程度の高いものであるから、われわれの方が物質の形態にあるものよりかえって実在的であるといえると思う」とこういっているのであります。
仏教では肉体の人間は念(こころ)が形をあらわしているもので、実体がないものだといい、霊界通信では、霊魂としてのわれわれの方が物質よりもはるかにいっそう実在であるというのであります。
ドレツサー女史の自動書記、必ずしも全部正確だと信ずべきではありませんが、その他の霊界通信によりましても、霊にとっては物質を透過することが自由実在なのであります。
霊は密閉した室の中へでも自在に透入することもできれば物品を遠方から引き寄せる力もある。服部時計店楼上で亀井三郎氏が実験して見せた物品引き寄せ現象や縄抜け現象はあきらかに、物質の不可入性を打ち破った実験となっているのであります。
いかにして密閉せる物質中を透過することができるかという説明には、たいていは、いったん物質をば電子に崩壊してそこを通過させて元の形に大急ぎで組み立て直すという人もありますが、わたしはその説明を信じないのであります。
科学の説明するところによりますと、ーグラムの物質を電子に崩壊するにも非常な熱量を生ずるのでありますが、密閉室内に持ち込まれた物品は、火傷をするほどの熱度をも持っていないのであります。また急にそれだけの物質が突然ガス体に変ずるにしても非常な爆発をともなわなければならないのに、ガス体以上の電子にまでも分解するのになんらの爆発を生じないというのも不合理だと思われるのであります。
それでわたしにいわせれば、ある物質をして密閉物質中を透過せしめることができるのは、それを電子に分解するのではない、物質は本来無であって、念(こころ)が形をあらわしたものであるから、念を異にする者、すなわち物質をもって実在とみとめない霊物にとっては透過することが自由であると考えられるのであります。
つまり霊界にある人間にとっては霊界の事々物々の方が、物質世界の事々物々よりもシッカリした実在に見え、物質世界の人間にとっては物質世界の事々物々の方がシッカリした実在に見えるわけでありますが、どららも本当は実在しないのであって、いずれもあると思う観念の影であるから、物質的観念を捨てた霊魂にとっては物質を透過することが自由自在であるとともに、霊魂世界とは別な観念をもっている人間には霊魂世界のマテリアルを透過することが自在なのであります。
昭和四年だったと思いますが、米国映画の名優バレンチノが死んで霊界通信をよこしたことが、『週刊朝日』に載っていたのであります。バレンチノはまだ物質世界に対する執着が脱け切らないで、ある日地上の公園を散歩していた。向こうから群衆が来る。人間の方ではバレンチノがいることが見えないでバレンチノと衝突した。すると、バレンチノの身体(からだ)のなかをスーツと生きた人間の肉体の人が通過してしまったのであります。
バレンチノの方では霊界に這入(はい)って間がないので物質的観念がぬけ切らないで物質を実在すると見ている、人間の方では霊魂の方を認めない、それで認めないものの方を自由に透過したのであります。
こんなふうに「人間の世界」と「霊魂の世界」とは共在している。しかしそれはどららも念の世界である。ただ念の種類が異(ちが)うので、「人間の世界」と「霊魂の世界」とは共通していながら別世界を構成しているのであります。
こんなわけで、われわれにとって事物が存在するとはそこにある念の世界を認めるということにほかならないのであります。
物質をあると認めるわれわれにとっては、物質は実に不可入性をもった実在なのでありますが、それを認めない霊魂にとっては自由に透過できるわけで、そんなわけで心霊現象におうおう実験される透視現象もできるのであります。
つづく
谷口雅春 著 「生命の實相第二巻」
★ 霊には肉体がないんでしょう。その肉体ない霊が死の刹那の病気を思い出し苦しんでいる。以前も書きましたが、霊媒師があんた死んで肉体無いんだよだから病気も無いんだよと言われてもまだわからない、コンコンとさとしやっと本人もそうなんだと気づくのですから、私達も霊界から見たら縦横厚みの肉体なんかただの波動に過ぎないのに、肉体があって病気になっていると勝手に錯覚して苦しんでいる。先日テレビでイタリアの芸術作品で目の錯覚を利用した作品がありましたが、私達の目がそもそも現象を見るためにできているだけで、ホンモノを見ているのでは無いのですから、錯覚している、死んで肉体もないのに病気になっている人と変わらないという事ですね!笑!
◎ 人間そのものの発見とその自覚
◯ 自力門と他力門
だからと言って「心の法則」を説く必要はないということはありません。或る種の病人や悪癖者を救うだけが目的なら、「神の子・完全円満」の縦の真理を説くだけで足りることもあります。しかし、私たちはまた心に自己反省を行なって、心の塵(ちり)を拭うように心掛けるということも大切であります。
心の塵を払うのに、心から心を放つ方法と、心をジツと見詰めて、心の欠点を無くするようにつとめ励む方法と二種類あります。
これは古来、仏教の上でも論争の絶えなかった問題でありまして、他力門は弥陀(みだ)(實相)の救いに乗托(じょうたく)して、自分の努力や反省に重きを置かず、從って「心から心を放つ」方法で「一切の苦厄(くやく)を度す」(浄土に往生する)ことになっていたのであります。
しかし聖道門(しょうどうもん)では反省、努力、修行に重きが置かれておりました。
しかし聖道門に属する禅宗などでも、心を反省してその塵を心から払拭(ふっしょく)するよう努力するか、心を本来清浄の實相に転ずるか、どちらを選ぶかは重大な課題でありました。
だから心の法則に重きを置いて衆生済度に懸命する講師と、本来人間清浄の實相に重点を置いて衆生済度に懸命する講師とが生命の實相に於いても生ずるのは自然の成り行きであります。
禅宗第ーの書と言われる『無門関』の第二十三則に「不思善悪」の公案があります。五祖(ごそ)の弘忍大師(こうにんだいし)が晩年、その弟子たちを集めて、「各々悟るところを」一偈(げ)として提出せよ。その中の俊秀(しゅんしゅう)なる者に仏法を嗣(つ)がせるであろう。」と命じたときに、神秀上座(しんしゅうじょうざ)は、「身は是れ菩提(ぼだい)の樹、心は明鏡の台の如し、時々勤めて払拭して、塵埃(じんあい)を惹(ひ)かしむる勿(なか)れ。」と書いて提出した
慧能(えのう)は、
「菩提は本、樹に非ず、明鏡は亦台に非ず、本来の無一物、何ぞ塵埃を払うを仮(か)らん。」
と書いて提出した。
前者は心の法則を説き、反省と努力によって心を浄く保たねばならぬという意味であって、所謂(いわゆ)る「人間・神の子だなどと悟ったことを言っても、心が変わらねば駄目じやないか。心を反省して心を正しく浄く持つことが大切じや。」と言って、横の真理を説いている生命の實相の講師のようなものであります。
ところが後者慧能は、「人間・神の子であって本来肉体無し、物質無し、心も無しじや。何の努力して塵埃を払拭する必要があろうぞ」という意味を言っているのであって、神一元(げん)の独在という縦の真理を説いている生命の實相の講師のようなものであります。
どちらが優れていると言っても、實相的に「深い」という点から言えば「縦の真理」でありますが、現象的に広く説くという点から言えば「横の真理」であります。
つづく
谷口雅春 著 「人間そのものの発見とその自覚」
★私はどちらかといえば、縦の真理ですね!笑!ここのところ横の真理が多かったのか心にとらわれ過ぎていましたので、縦の真理で、罪なし、病なし、迷いナシとやった方がスッキリしますね。でも雅春先生深いですね!笑!徳久先生もいつまでも心にとらわれ過ぎないように話しておられました。心もナシと!笑!