今日のことば

 

 

愛は繁栄の門をひらく鍵である

 

 

心の内に誰かに反感をもっていたり、または、誰かを「排斥する心」がありましたらならば、その「排斥する心」がなくなるまで、その人に対する愛念を起すのです。(中略)誰かを排斥する心は、結局「富」をも「繁栄」をも排斥することになるのです。愛はすべての善きものを自分の内に引き寄せる磁石的力となるのです。

 

 

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★何回も何回も読んでいるのですが、排斥する心は「富」も「繁栄」も排斥することになるとは知らなかったですね!笑!自分のものになるかどうかなんですね!医学博士の徳久先生がいつも話しておられましたが、馬を水飲み場に連れて行っても水を飲むか飲まないかは馬次第です!問題抱えている人にこの真理を教えてあげても、これを信じるか信じないかはその人次第ですという事です。又読みながら重要な所に赤線を引いていると結局すべてに線を引くことになりますと話されました。この生命の實相のすべてが真理だという事ですね!では生命の實相のつづきです。

 

 

 

 

 

◎ 「生命の實相」の神人論(しんじんろん)

 

 

 

③ われらは初めから如来(にょらい)であり成仏(じょうぶつ)している

 

つづき

 

 

 

こういうふうに釈迦(しゃか)はお説きになっているのでありまして、われわれの本性(ほんせい)すなわち生命(せいめい)は、この月のようにこの世界から没して往って極楽(ごくらく)へ救いとられるというよう不完全なものではない。

 

 

 

山のこちらから月を見るからこそ、月が出てから明るくなったように見える、しかし月は山の上に出ようが出まいが常に明るいのであります。

 

 

 

それと同じように人間の本体も、五官という感覚機関の眼をもって見るからこそ肉体が滅してから極楽世界に救いとってもらうように見えるのでありますが、それはただそう見えるだけのことでありまして、

 

月が見えると見えないとにかかわらず、月自体が明るいと同じように、われわれ人間は感覚にはいろいろ没したり食したり、苦しんだり悩んだりするように見えますけれども、

 

人間の本体そのもの(本物の自分)の上からいえば、常にわれわれは仏教的にいえば極楽浄土にあり、キリスト教的にいえばエデンの楽園にあり、古神道的にいえば高天原(たかあまはら)に住んでいるのであって、死なく、病なく、罪なき、金剛身(こんごうしん)、無病身(むびょうしん)、清浄身(しょうじょうしん)―

これが「本物の自分」なのであります。

 

 

 

本項の冒頭にも引用しましたところの『涅槃経(ねはんぎょう』にもあるとおり、この真理がわかれば、われわれは心に本当に歓喜が生じてくるのであります。

 

 

 

この歓喜こそ魂の本当の深いところからくる歓喜であって、この魂の歓喜を味わうとき、ひとりでに病気も治れば、感覚を追うて得られるいっさいの快楽のごときは影を追う愚さであるということがわかってきて、五官の快楽に捉えられなくなり、欲望というものが自然と純浄になって来て、食欲でも性欲でも自然に整理できて来るのであります。

 

 

 

昭和六年四月二十日、わたしは大阪堂ビルの清交社で「本物の自分」という者は「如来」である、「神の子」であるという講演をいたしましたところ、その講演筆記を読まれた方の一人が「本物の自分」が解った、解って心に歓喜を生じましたら、

 

今まで、西式健康法等いろいろやってみたが寸効もなかった脱肛痔(だっこうじ)がその翌日、見ちがえるほど快癒しているので驚いたといってわたしの宅へ話をききに来られましたが、「本物の自分」を識るということはこれほど効果のあるものでありますが、いくら真理の書を読んでも「本物の自分」を悟ることのできない人は、悟るまで繰り返し読んでもらうよりしかたがないのであります。

 

 

 

谷口雅春 著 「生命の實相第二巻」

 

 

 

 

 

 

◆「ことわざ」のなかに、また「笑う門(かど)には福きたる」とか、「泣き面(つら)に蜂(はち)」とかいうのがありますが、笑う家にはよいこと(福)がくる、ということは、福がきたから笑うのではく、笑いが福をよぶ、ということです。また「泣き面に蜂」も、蜂がさしたから泣くのでなく、泣いてると蜂がきてさす、ということで、「笑いは福をよび」、「悲しく泣くものは、より悲しく泣くことをよぶ」ということで、福」も「泣くこと」も、「笑い」と「悲しみ」でその人がよんでいる、という「ことわざ」です。

 

このようなことは、精神科学的にーつの「心の法則」として考えてみますと、まことに興味のあることです。人生の幸・不幸を決める、とても大切な問題である結婚でも、私は「運」によるのだと思っていました。しかし、お互いに「あの人なら……」と、最後の決定をくだすのは、お互いの「心」であるのですから、お互いの「心」がよびよせた、「似た者夫婦」として、結ばれたということになるのであります。

 

ですから、ものごとの、表面だけをみず、その奥にひそんでいる心をよく観祭しますと、結局は、「運」を自分の心がよんでいることがわかるのです。

「運」というものは、むこうから勝手にやってくるのではなく、自分の「心」しだいで、幸運でも悪運でも、自分でよびよせているのです。このことがわかりますと、自分の運をきりひらく鍵を、自分でつかむことができます。

 

「運」をきりひらく鍵をしっかりとつかんで、皆きま、ご自分の幸運をよびよせてください。皆さまが、限りない幸運をよびよせて、人生を価値ある、明るく楽しいものにしてくださることを、心からお祈りしています。

 

 

 

昭和六十一年六月十三日

 

医学博士 徳久克己 著 「幸運を呼ぶ」