今日のことば

 

 

心で光を見る

 

 

福山市◯◯の木工業◯◯君はこんな體験を語った。「私しの妻は一方の眼の瞳に星がかかって、その星が次第に大きくなり失明した状態になっていた。六月に尾道市に生命の實相の講習会が開かれたとき聴講に来た。第一日の講習を受けた翌日は眼が痛み出して二日目の講習会には出席出来なかった」。これは迷いの自壊である。「第三日には痛みが和らぎ出席したが、何かの拍子に手が眼の包帯にふれて包帯の位置がズレると、星に瞳孔が閉(とざ)されて見えなくなっていた眼が見え出した」。心が一変して光を見る心になったからである。

 

 

萬物の奥に光を見よ

 

 

光は天地間に充ち満ちておれども、その光を百パーセント完全に見る者は聖者である。多くの人たちはその光を一部分しか見ていないのである。心の眼を開いて見よ。到る処に光は充満している。空気には神の生命がかがやいているのである。空気を吸っていることは神の生命を吸っていることである。水には神の愛が輝いているのである。水を飲むことは神の愛を飲むことである。食物には神の恵みが輝いている。これを食することは、神の恵みを食することである。

 

 

 

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★昨日お腹が痛くなったと書きましたが、これは大病の後の余震だったのか?あの大病の時私は死んでいたのかも知れませんね!笑!それを神様が私の荷物を一度とりあげてくれて、1年半後に再び救急車で運ばれ、1日で退院しましたが、そして再び一月半後に腹痛で痛み、苦しみという事を嫌というほど体験させてくれました。そういえば私は2ヶ月の入院の時殆どが集中治療室で意識はなく、痛み、苦しみの経験がありませんでした。記憶にあるのは元気になって入院の嫌なこと、々、病気の痛み苦しみは意識がなく記憶していませんね。実は今これを書いている時に又お腹が嫌な状態になって来ましたので書くのやめて、物質なし、肉体なし、心もナシ、神一元の世界、光一元の世界、罪なし、病なし、ありがとうございますとやっていたらスート消えました。見事に健康になりました。病気はないんですね。笑!すぐ消えるものなんですね!笑!でもおかしくなった時は慌てましたよ、え!うそう、どうしようと本当に思いました。まだまだ修行がたりないようですね!笑、現象的には忙しかった!笑!

 

 

 

 

 

 

 

◎ 無礙自在の「生命の本性」を発揮せよ

 

 

 

◯ 一時を救うのではなく根本的に救うことが必要

 

 

 

そんなら、貧しき人に会って自分が彼より富んでいても恵む必要はないのか、恵まないでもそれでよいのか?

 

 

 

―とムキになって問いつめて来られる人があるかもしれませぬがここが大切なところであります。ある時には恵まないがよろしく、ある時には恵むのがよろしいのであります。

 

 

 

恵む恵まぬが問題ではなく相手を救う―根本的に救うということが目的だからであります。

 

 

 

われわれはまず善をなそうという念願をもたなければならない、

 

それと同時に常に、「わが行ないをして神意(みこころ)にかなわしめ給え」と祈らなければならない。

 

 

 

そしてその祈りを深めることによって、神の神意があらゆる事にあたって、自分の行ないを通じて現われて来るという自信をもたなければならないのであります。

 

 

 

われわれはある人に金をやってその人が根本的に救われるか、金をやらずに彼の意気地なさを叱責する方がその人が根本的に救うことになるのか、人間心では知ることはできない。

 

 

 

ただ神と一致することによって―神を自分の内部に祈り招(よ)ぶことによってすべてを知り給う神の聖意(みこころ)が自分を通じて働いてくださるという自信がもてるのであります。

 

 

 

自分の知恵で善悪を定めるのではなく、自分に宿って、中から催してくる神の知恵に従うのであります。

 

 

 

神に従う事こそ唯一の善であり、唯一の愛であり、唯一の知恵であって、そのあらわれは怒りの爆発となって出て来ようとも、貧しい人をののしって帰すようなことになろうとも、それを善とか悪とか、とやかく人間心で批評することはいらないのであります。

 

 

 

そこに本当の超越的な「善」が生きて来るのであります。この超越的な善が生きるときわれわれは真に道徳的な自由を得るのであります。

 

 

 

今、わたしはあの貧しき人に対してののしったが、あれは悪かったと後悔して自分を責めることはいらない、自分を責める暇があれは、「どうぞわたしのののしりが因縁になって、あの貧しき人が本当に救われますように」と心からの祈りを、その人の背後(うしろ)から捧げてあげる方がよいのであります。

 

 

 

こうして本当に祈れる人なら、祈っているうちに、「これでよし、あの人は救われる」という感じが湧いて来るか、「これではいかぬ、なんとかしてあげる方がよい」とか内から心に浮かんで来る、この祈りのうちに内部から浮かんでくる導きの声にまかせて次の行動をとればよいのであります。

 

 

 

つづく

 

 

谷口雅春 著 「生命の實相第二巻」

 

 

 

 

 

◯三十日経言

 

今・此処・天国を実現する言葉 

 

 

 

絶対者と一体(ひとつ)になる最高の神想観はただ一つ― しずかに坐して次の如く念ぜよ。『吾が中(うち)に、神が今此処に、そして天国が今此処にある』

 

 

 

日々読誦三十章経 谷口雅春