◎ 生命の實相の超薬物学

 

 

 

◯ 神の子たる人間に病気はない

 

 

 

本当のことを申しますと、この本が病気を治すのではありません。神の子たる人間に病気は本来無いのであるから、治すも治さぬもない、本来治っているのであります。

 

 

 

それにあなたが病気だというならば、それはあなたの「信念」にまちがったところがある、そのまちがった「信念」がちょうど活動写真のように影を映して、肉体に病的状態をあらわしているのであります。

 

 

 

皆さんが仮に喀血や胃出血を起こしたならば、物質的に肉体という物質が損じて、その血の流れているパイプに物質的の孔(あな)が明いた、どうも手のとどかないところに明いた孔だからふさぎようがなくて困るなどとお考えになる一方に、どうも痰(たん)や咳や寝汗が出て肉体が苦しいとか、胃が痛んで苦しいとかお考えになるのであります。

 

 

 

ところがこの考えには非常な矛盾があるのであります―まずあなたは「肉体は物質であって、その物質に孔があいた」と考えていられますが、肉体が物質であれば、それが単に物質であるというその理由だけで、もう肉体は苦痛を感ずるはずはないじゃありませんか。

 

 

 

物質は苦痛を感ずる性能がない。それだのに肉体が苦しいと感じられる。これこそ肉体が物質でなくて「念の影」(観念的存在)である証拠であります。

 

 

 

念が苦しいと感じていられればこそ、その念のあらわれなる肉体が苦しいと感じるのです。苦しみは念にあって物質にあるわけはないのであります。

 

 

 

こうして肉体が「念の影」(観念的存在)だということがわかれば、喀血しても何もあわてることはないのであります。

 

 

 

「心」が映画技師で、喀血と題する映画を、肉体というスクリーンに映し出しているのですから、それを適当の時に止血させるのには、やはり「心」という映画技師を雇って来るほかはないのであります。

 

 

 

実際喀血とかなんとか、大いに身体に変調のある時にこそ「心」を落ちつかせて人間の本体が無限に完全な調節能力をもった「生命」(生きる力)であるという事実を「心」に描くべき時なのであります。

 

 

 

こうすれば喀血でも、その他の変調でも、適当に調節されて来るのです。といって、一生懸命心をおちつけ精神を統一しようとして焦ったり力んだりする必要はないのであります。

 

 

 

われわれの生命というものは焦ったり力んだりしなければ、調節が完全にできないようなそんな不完全なものではない。われわれの生命は「神の子」であるからそんなに不調和にはできていない。

 

 

 

ただこの真理がわれわれの心の底に「信念」になってさえおれば、その「信念の影」として肉体が調和した完全な調節したものとならねばならぬはずであります。

 

 

 

われわれが焦ったり力んだりするのは、まだ自分の「生命」(生きる力)が神の生命の「分(わ)け生命」であって、神そのもののごとくに完全であるという真理(ほんとのこと)を知らないからであります。

 

 

 

焦ることも力むことも何もいらない、肉体は観念的存在(こころのかげ)でありますから、心が正しき真理を知っておちついていると肉体はなんの感じもない、「影」に感じがないのは当然のことだからであります。

 

 

 

だから肉体はどこに胃があるか、心臓があるか、肺臓があるか、感じがない時に一等健康なのであります。

 

 

 

神想観でも座禅でも鎮魂でもするとその深い境地に入れば肉体があるかないかわからなくなる、これが本来の面目なのであります。

 

 

 

「生命」は全体として調和した渾一体(こんいったい)でありますから、「生命の実相(ほんとのすがた)」を自覚したならば、肉体は渾然とした「一つ」として感じられるのが当然で、「ここに肺臓がある」とか「ここに胃がある」とか「ここに心臓がある」とか個々別々にその存在が感じられる時は、「生命」の渾然とした統一感―「真理の自覚」が心に失われた時で、真理を心に自覚し、自己生命の完全な統一感が得られれば、どこに胃があるとか、心臓があるとかいう「統一自覚の分裂」が消えて、肉体は渾然とした調和した生きもの(生々の実在)として感じられて来るのであります。

 

 

 

 

谷口雅春 著 「生命の實相」第二巻より

 

 

 

 

*藤原敏之先生の「最高の幸福を得るには」を書いて来ましたが、素晴らしい先生でしょう。谷口雅春先生の本を読みながら弟子である藤原先生の本も読むことにより又別の角度から真理がわかりますし、谷口雅春先生はいつも謙遜して自分も一求道者ですと云われますが、弟子である藤原先生の言葉により如何に尊師が偉大な方か、尊師の書かれた御本がいかに素晴らしいかがわかります。明日からは藤原先生が唖を治された体験を書いていきます!