◎ 私はこうして祈る

 

 

 

◯ 相手を善くするためには

 

 

「あいつは悪い、あいつは悪い」と念ずることは、その思念の力によってその相手の人をしてますます悪くならせることになるのである。念ずれば念ずる通りにあらわれるのが心の法則であるからである。正義によって、憤(いきどお)るということは、「彼は間違っているから善くしてやりたい」という希望からなされるからである。この場合、次のごとく思念せよ。

 

 

「彼は本来あんな悪いことをする人間ではない、善い人間である。善い人間である、だから今後は善いことばかりするのである」

 

 

 

 

○ 相手の感情を害したとき

 

吾々は腹を立てている時、ものごとをいそいで始末してはならないのである。また、こんな時には、とかく、激しい言葉を出したくなるものである。このため、思わぬ誤解や不調和を招くものなのである。また、手紙を書くことも同じ結果を招来することになる。しかし、一度この「禁」を犯してしまった以上は、まったくとりかえしのつかぬことなのであるから、一人あくせくすることなく、神にその善処を全托することを忘れてはならないのである。そして、祈らねばならない。

 

 

「神はわが興奮によって過(あやま)ちて犯せる行為を宥(ゆる)したまう。しかして、今後かくのごときことのなきよう導き給うことを感謝いたします。私とあの人との間は、神の愛がこれを調和せしめ給いて互いに愛情をもって結ばれるのである。私はあの人を愛しており、あの人は私を愛しているのである」

 

 

 

 

○「暗黒を超越するには

 

 

神は人間が暗黒なる状態を通通する時に、是非なくてはならない光である。悲しみに泣き濡れ人々よ、眼をあげて神の光を見よ。暗黒に道を見失った人々よ、眼をあげて神の光を見よ。汝は必ず悦びを見出して慰められん。汝は必ず道を見出して再び進みゆく勇気を見出すであろう。神は遠い所にましますのではなく、きわめて近く自己の内にましますのである。次の如く念ぜよ。

 

 

「吾は神の子である。神の光が自分の内に宿っていて自分を導き給うのである。神の光は智慧(ちえ)の光である。智慧の光の射すところけっして暗きことはないのである。神の智慧の導きに感謝いたします」

 

 

 

 

○安全と繁栄を得るには

 

 

吾々は心配するということを、恐怖することを忘れねばならないけれども、どうしてもこれらの悪い心を忘れ捨てきれないのは、「神」なる「全能者」を忘れているからである。わが業はこの偉大なる者がなすのである。必ずよくなるよりほか仕方がないのであるという信念を確立することが必要なのである。神に守護されていることを忘れてはならない。私達は神様の子供なのである。親である神様が子供である吾々の苦しむのを悦んでいらっしやるはずは当然あり得ないのである。次のように念ずるがよい。

 

 

「われは神に護られて常に健康である。

われは神に護られて常に幸福である。

われは神に護られて必ず栄える。

神の智慧は常にわれを安全と繁栄に導き給うのである」

 

 

 

 

○憂欝から起ち上るには

 

 

人は時々暗い想念にとらえられて、人生に何の意義も価値も見出し得ないような感じに陥(おちい)ることがあるのである。しかし、それはその人の「真物(ほんもの)」が現われていないで、宇宙間を雲のように浮浪している悲観者の精神波動をキャッチしたにすぎないのである。

 

暗い想念はー過性の現象なのである。このー過性の現象の捕虜(ほりょ)になってはならない。この暗い感じを自分自身の「真物(ほんもの)」の感じだと考えちがいして、深いメランコリーにとらえられてはならないのである。こんな時には、まず鏡に向い顔を剃ることである。そうしてクリームでも化粧液でも塗って微笑し次の如く思念せよ。

 

 

「自分は楽しいのだ。神の子なんだもの。この若々しいうれしい顏を見よ。自分は希望に満たされているのだ。

 

 

吾は愉快である。吾は幸福である。吾は健康である。吾は光明に満たされている。

不快は是れ存在しないのである。憂欝はこれ存在しないのである。悲しみはこれ存在しないのである。

 

神の光明流れ入る、流れ入る。……われ幼な児が母の乳房を吸うがごとく、

神の悦びに充ちたる生命を吸う。

神の悦びは霊的悦びである。

霊的悦びが私の悦びである。ありがとうございます」

 

 

 

 

◯ 恐怖心を克服するには

 

 

恐怖心が起これば、敏速にして適当なる判断は失われてしまい、蛇ににらまれた蛙(かえる)のようにのがれる道はありながら立ちすくんでしまうのである。恐怖心はまことに人生の敵だといわなければならないのである。では恐怖心をとりさり、「できる」という考えを導き出すためにはどうしたらいいであろうか。それには、次の如く念ずればよい。

 

 

「自分は神の子である。神は常に無限の智慧をもって導き給うているのであるから失敗することはけっしてないのである。神はわが智慧、わが力、わが富ー無限の供給である」

 

 

 

 

谷口雅春  著  「私はこうして祈る」より抜粋

 

 

 

 

 

*重度の聴覚障害者国立大学入学体験

 

私が「生命の實相」に初めて触れたのは、中学一年生の冬休みから毎回参加していた青少年練成会の会場だったと思います。

当時は、頭注版が発行される前で、いわゆる携帶版が発行されていましたが、その第一巻(総説篇)や第七巻(生活篇)がテキストに指定されていました。その文章は、正漠字・歴史的仮名遣いでしたが、総ルビでしたので、懸命に拝読させていただきました。

 

特に生活篇の巻頭にあります「困難にたわむれよ」とのご文章は、心を強く揺り動かしました。

 

「兄弟よ、海の波が巌(いわお)にたわむれるように、困難にたわむれよう、猿が木の幹を攀(よ)じのぼるのをたのしむように困難を楽しんで攀(よ)じのぼろう。もし軽業師(かるわざし)が綱(つな)の上を渡らないで、平坦(へいたん)な大道を歩くだけならば、誰も喝采する者はないであろう、梅の花は烈々(れつれつ)たる寒風の中で開くので喜ばれるのだ。兄弟よ、私は苦しみに耐えよとは言わない。「生命の實相」では苦しみに戯(たわむ)れるのだ。如何なる苦しみをも戯れに化するとき人生は光明化する」

 

高校に入学直後、父が突然昇天しましたので、十五歳の私は、長男としてー家を支えるため、早朝三時から新聞配達に従事し、高校に通い、高校生連盟の活動に邁進しました。その後も、新聞を配達しながら、大学に進学し、大学院博士課程の単位を修得させていただきました。「生命の實相」の「困難にたわむれよう」をはじめ、数々の神様の言葉によって本当に支えられてきたと思います。

 

結婚後、授かった長男に重度の聴覚障害があることがわかったとき、私の魂は、「生命の實相」聖語篇の次の言葉によって救われました。

「名騎手はかえって駄馬(だば)をも乗りこなそうと試みる。ことさらに乗りこなせない病弱な肉体を選んでその肉体に宿って来た「生命」がある。生まれつきの不具者(かたわもの)、難病者の「生命」はそれである。

 

皆のものよ、不具者(かたわもの)と難病者の「生命」をいっそう尊べ、彼の「生命」は名騎手であるから、特にかかる不便利な肉体に乗っているのである。彼を軽蔑するな。憐(あわ)れむのさえ、名騎手たる彼の「生命」に対しては失敬である。その「生命」の悲壮美に驚異(きょうい)せよ。賛嘆せよ」(頭注版第22巻24頁)

 

長男は、障害を秉り越えて国立大学を卒業し、NTTグループの技術的中核企業のエンジニアとなっていますが、その原動力は、小学生の頃から、繰リ返し「神の子だよ」と親から言われ続けたことにあったと文を書いております。

 

尊師谷口雅春先生よれ、◯◯◯◯大神様のご神殿である「生命の實相」の著作権と法脈を永遠に託(たく)されております「◯◯◯◯社会事業団」の聖なる使命の重大さを改めて実感するとともに、報恩感謝の誠心をもって精進させていただく覚悟であります。

 

公益財団法◯◯◯◯社会事業団 理事長◯◯◯◯体験