◎ 「生命の實相」の超生理学
◯ 食物の小言は禁物
よく滋養物だの栄養料理だのといって、「知恵の樹の果」の一種なる栄養学にとらわれている方がありますが、そういう方に限って、その日その日の食膳にのぼる食物をなんらの権威のない栄養学の立場から批評して、コレは悪いとか、アレは悪いとかしじゅう小言ばかりいう傾向があるのであります。
小言は心の平和が乱れた証拠であります。
よほど修養のできた人でも、栄養学にとらわれている限りは小言を口でいわないだけで、心の中には「こんな物は滋養にならぬ」とか、「こんな物は胃腸に悪い」とか不平や恐怖をとなえながら食べているものであります。
すると食物そのものは決してわれわれの健康を害することがないにもかかわらず、心が平和を欠くために、心でその食物が身体に悪いだろうと予想し恐怖するために、その心の乱れを生理作用に映し出して、その人の健康はしだいに調子を乱してくるのでありまして、食物そのものにわれわれの生命を害する積極的力はないのであります。
このようにわれわれの肉体の栄養分の調節は、外からは摂理と本能がやってくれ、内からは自然の生命力が調子をとってくれるのでありますから、われわれは何も自分で何を食らい何を飲まんと思い煩う必要はないのであります。
もし外からの調節ができなくなり、外界からある栄養素をぜんぜん引き抜かれましても、心さえ平和であればわれわれは一燈園の西田天香氏のように病気にならずにいられるのであります。
だいいち、神の子たるわれわれ人間、創造(つく)られた物のうちでも神のもっとも完全な万徳を賦(あた)えられてすべての他のものを支配する権力を与えられたわれわれ人間が、消化不良といって、食べた物質にアベコベに支配されるというわけはないはずであります。
だからもし諸君が消化不良であるならば、もし糖尿病であるならば、もし腎臓病であるならば、そのほかおよそ食物に原因するという病気にもしかかっているならば、今後決して、食膳にのぼる食物の成分を考えたり、固さを考えたり、これを食べては良いか悪いかなどと考えたりしないで、自然の摂理によって食膳に運ばれて来るものを、神から与えられたる自分にとっての最善の食物として感謝して素直に食べるがよいのであります。
これが唯一のこの種の病気の心的治療法であります。
生命や活力やその他なんらかの積極的力が物質そのものにあるという信念 ― こんな迷いの信念を捨てて、「われこの食物を神より与えられたれば、最善の食物なり」との信念で、いかなる食物をも平和な、素直な恐怖のない心でとるとき、この正しい信念が自分で自分を養なうて、その人はいかなる食物からでも人一倍豊富な栄養を吸収することができるのであります。
谷口雅春 著 「生命の実相」第一巻〈完〉
* 昨夜テレビ東京10時から未来世紀ジパング「戦後の日本を救った知られざる親日国!スリランカ」という放送をやっていた!
サンフランシスコ講和会議の席でスリランカのジャヤワルダナ代表は、日本に対する賠償請求権を放棄する、と続け、その理由として、仏陀の「憎悪は憎悪によって消え去るものではなく、ただ愛によってのみ消え去るものである」と言って・・・・下記参照 私も全然知らなかったのでネットで調べたら下記が出てきまして、あまりにも素晴らしいので長いですが全文掲載します。
◎ 日本とスリランカの間には、互いに助け合った長い友好の歴史がある。
1.「日本は自由であるべきである」
1951(昭和26)年9月6日午前11時、スリランカ代表のJ・R・ジャヤワルダナの演説が始まった。舞台は米国サンフランシスコ講和会議である。
51カ国からの代表が集まって、日本との講和条約を結び、日本の独立を認めるかどうかを議論する場であった。米国が中心となって、日本の独立を認める講和条約案がまとめられていたが、ソ連は日本の主権を制限する対案を提出し、さらに中国共産党の出席を求めたりして、審議引き延ばしを図っていた。
ジャヤワルダナ代表は、自らはスリランカ代表ではあるが、「日本の将来に対するアジアの人々の全般的態度における彼らの感情をも述べうる」として、こう語った。
アジアの諸国、セイロン(JOG注:スリランカ)、インド及びパキスタンの日本に対する態度を活気づけた主要な理念は日本は自由であるべきであるということであります。・・・
「自由であるべき」とは、日本の占領を解いて、独立を回復させるべき、という意味である。
2.「アジア隷従人民が日本に対して抱いていた高い尊敬のため」
講和条約への賛成を表明した後、ジャヤワルダナ代表はその理由を述べた。
アジアの諸国民が日本は自由でなければならないということに関心をもっているのは何故でありましょうか。それは日本とわれわれの長年の関係のためであり、そしてまた、アジアの諸国民の中で日本だけが強力で自由であり日本を保護者にして盟友として見上げていた時に、アジア隷従人民が日本に対して抱いていた高い尊敬のためであります。私は、アジアに対する共栄のスローガンが隷従人民に魅力のあったこと、そしてビルマ、インド及びインドネシアの指導者のあるものがかくすることにより彼等の愛する国々が解放されるかも知れないという希望によって日本人と同調したという前大戦中に起こった出来事を思い出すことができるのであります。
「共栄のスローガン」とは、日本が大戦中に唱えた「大東亜共栄圏」のことであり、実際に欧米諸国の植民地支配からの独立を目指す国々の代表が東京に集まって、「大東亜会議」が開催されている。さらにビルマ、インド、インドネシアでは、日本が支援して設立された独立軍が、これらの国々の独立戦争に大きな役割を果たした。ジャヤワルダナ代表は、日本に対する賠償請求権を放棄する、と続け、その理由として、仏陀の「憎悪は憎悪によって消え去るものではなく、ただ愛によってのみ消え去るものである」を引いた。
ジャヤワルダナの演説が終わると、賞賛の声の嵐で会場の窓のガラスが割れるほどであったと『サンフランシスコ・ニュース』は報じている。また『サンフランシスコ・エグザミナー』紙は「褐色のハンサムな外交官が、セイロン島よりやって来て、世に忘れ去られようとしていた国家間の礼節と寛容を声高く説き、鋭い理論でソ連の策略を打ち破った」と評した。
この後、ソ連、ポーランド、チェコスロバキアを除く49カ国が講和条約に署名し、翌年4月28日、日本はついに独立を回復したのだった。
3.西洋の植民地支配400年
おそらく当時の日本国民は、遠く離れたスリランカの一外交官がなぜにこれほどまで日本を擁護してくれるのか、いぶかしく思ったろう。しかし、スリランカの歴史を辿ってみれば、その理由も見えてくる。スリランカとは「光り輝く島」という意味で、その美しい豊かな自然から「インド洋の真珠」とも呼ばれてきた。北海道の8割ほどの国土に、現在では2千万人の人々が住んでいる。紀元前5世紀に北インドから移住したシンハラ人が王国を作り、紀元前3世紀に仏教が伝わると、それ以降、現在まで仏教国として信仰を守ってきた。しかし、スリランカはインド洋交易の重要拠点であり、そのため、早くから西洋諸国の侵略にさらされた。1505年にポルトガル人がやってきて、約150年間、沿岸部を支配した
。1658年からは今度はオランダが替わって約140年間、植民地支配
を続けた。さらに1796年にはイギリスが支配者となり、全島を支配下においた。
イギリスは、スリランカ全島を紅茶の生産基地とし、米まで輸入しなければならない状態にしてしまった。独立を求めて大規模な反乱が三度起きたが、いずれも武力鎮圧された。イギリスは南インドから移住してきた少数派のタミル人を優遇し、彼等を教育して役人とし、多数派のシンハラ人を治めさせた。この巧妙な分割統治が、現在も続く民族闘争の原因となった。同時にキリスト教徒を優遇し、仏教を抑圧した。シンハラ人のほとんどは仏教徒で、教育を受けることも難しかった。
4.「アジアを救うことこそ日本の役割」
イギリスの植民地支配のもとで衰退した仏教を再興しようと19世紀末に立ち上がったのが、スリランカ建国の父と呼ばれるアナガーリカ・ダルマパーラであった。敬虔な仏教徒の家に生まれたが、当時のキリスト教の強い影響で、聖書にちなんだダビッドという名をつけられていた。しかし仏教再興運動を進める中で、自ら「アナガーリカ(出家者)・ダルマパーラ(法の保護者)」と名乗ったのだった。ダルマパーラは仏教の縁で、明治22(1889)年2月に初めて日本を訪れた。おりしも大日本帝国憲法発布式が行われており、ダルマパーラは近代日本の胎動を目の当たりにした。
ダルマパーラは明治25(1892)年に2回目、明治35(1902)年に3回目の来日を果たした。3度目の来日の2か月前、日英同盟が結ばれており、ダルマパーラは「欧米人のアジア人に対する差別的偏見をなくし、植民地支配という悲劇の中にあるアジアを救うことこそ日本の役割なのだ」と語っている。その2年後、日本は大国ロシアに対して戦いを挑み、これを打ち破った。日本の勝利にスリランカの人々は熱狂した。ダルマパーラも「こんな素晴らしいことはない。皆さんは気づいていないかも知れないが、皆さん日本人によってアジアはまさに死の淵から生還したのだ」と語っている。
5.「次に生まれるときには日本に生まれたい」
3度の来日で、日本の驚異的な発展を目の当たりにしたダルマパーラは、シンハラ人の自立のためには技術教育が欠かせないと考え、日本に留学生を派遣する財団を設立した。大正3(1913)年、ダルマパーラは最後の訪日を行い、帰路、満洲と朝鮮も訪れた。日本はこれらの地に惜しみない資本投下を行って、急速に近代化を進めていた。ダルマパーラは「日本が2、3年の内にこの地で完成させたことを、イギリスがインドで行ったならば優に50年を要していただろう」と、植民地を搾取の対象としかみないイギリスとの違いを指摘した。ダルマパーラの活動によって、仏教に根ざしたシンハラ人の民族主義運動が高まっていった。イギリスの植民地当局はこれを警戒し、おりから発生した暴動の首謀者としてイン
ドで5年間もダルマパーラを拘束した。弟も捕らえられ、半年後に獄死した。それでもダルマパーラは運動をやめず、昭和8(1933)年、69歳でスリランカ独立の日を見ることなく、生涯を終えた。「次に生まれるときには日本に生まれたい」とよく話していたという。
6.皇太子のお召し艦を一目見ようと胸を弾ませて港に赴いた少年
1921(大正10)年3月、日本の巡洋艦『香取』がスリランカを訪れた。当時、皇太子であった昭和天皇をお乗せして、ヨーロッパに向かう途上であった。
皇太子のお召し艦を一目見ようと港に集まった人々の中に、一人の少年がいた。15歳のジャヤワルダナであった。ジャヤワルダナは、昭和54(1979)年、国賓として来日した際に、宮中の歓迎晩餐会にて次のように語っている。
外国の統治の下では、人々の信仰や言葉、慣習などはほとんど消え去りそうになっていました。このことから、私達だけではなく、西欧の帝国主義の下
で同じような運命によって苦しんでいる全てのアジアの国民達は日本を称賛し、尊敬していたのです。先の80年の間、日本はアジアにおいて独立国として立ち上がっていたのです。西欧の列強が、その軍事力と貿易力によって世界を支配していた時に、あなた達は彼等と競い、匹敵し、時には打ち負かしていました。
陛下が1920年代に皇太子としてスリランカを訪れた際には、私は気持ちを高ぶらせて陛下が乗船されている艦を一目見ようと港に行ったものでした。
当時の日本は、日英同盟のもと、第一次大戦をイギリスと共に戦って勝利し、世界の強国として頭角を現しつつあった。自分たちと同じアジア民族で、かつ共に仏教を信奉する日本の皇太子が、自国の巡洋艦で対等の同盟国であるイギリスに赴くという出来事は、「自分たちもいつかは独立を」という希望をスリランカの人々に抱かせたに違いない。
7.「インドとスリランカにいる兄弟・姉妹に呼びかけます」
1932(昭和7)年にコロンボに生まれ、スリランカ独立後に海軍兵学校部隊長となったソマシリ・デヴェンドラ氏は、次のよ
うに語っている。1941年に日本が真珠湾を攻撃し、第2次大戦に参戦した時には、スリランカ人は日本に対してある種の同情を寄せていました。・・・
1942年の初め、強力な日本海軍はインド洋上の敵艦をどんどんと破壊していき、スリランカ島に向かっていきました。しかし、その時にスリランカに停泊していたイギリス軍艦の多くは第一次世界大戦当時に造られた古いものばかりでした。4月、日本海軍の航空隊はスリランカの都市を空襲し、それらの軍艦に攻撃をしかけてきました。この航空隊は真珠湾攻撃に参加した後にやって来た隊でした。日本軍の爆撃の命中率は世界で最も正確だったと言われています。この空襲の際に、3人が乗った日本軍の攻撃機1機が墜落した。コロンボのカテッナ市営墓地には、墜落死した日本兵の墓が造られている。日本軍はシンガポールを占領した後、投降したインド兵を集めて、インドの独立を目指すインド国民軍を組織さ
せた。その中にはスリランカ人の部隊もあった。インド国民軍はシンガポールからインドやスリランカに向かって「ラジオ昭南(シンガポール)と呼ばれるラジオ放送を行った。当時12歳だったデヴェンドラ氏は、このラジオ放送をよく聞いていた。「こちらはラジオ昭南、インドとスリランカにいる兄弟・姉妹に呼びかけます」という言葉で始まり、「ワン・デイ・マータラ」という、今でもインドでよく知られているインド国民軍の歌を流した。アメリカの情報機関は、このようなインド向けの放送が、インド人の心理に与えた影響は非常に大きかったとしている。
8.「私達は日本に、このことを感謝しなければなりません」
日本が敗戦した日は「Victory over Japan
Day(対日勝利の日)」と呼ばれ、大きな都市では記念式典が開かれた。デヴェンドラ氏が住んでいたラトゥナプラでも式典が開かれ、イギリス側代表の後で、氏の父親がスリランカ側を代表して演説を行った。この日は、私達が日本に対する勝利を祝うものです。しかし、私達は日本によって得られたものがあります。それは愛国心という心でした。それは、日本によって全てのアジアの国々にもたらされたのでした。戦争によってアジアの国々、インドネシアやインド、スリランカ、ビルマなどは自らに対する自信と民族主義の意識を得たのです。私達は日本に、このことを感謝しなければなりません。「対日勝利の日」に、英国側の前で、日本に感謝する演説を行うとは、まことに大胆な言動である。それだけ強
い気持ちが籠もっていたのだろう。1948年2月4日、スリランカは独立を果たした。日本が設立を支援したインド国民軍の指導者たちをイギリスが「反逆者」として軍事裁判にかけようとした事に対して、インド全土に暴動、ストライキが広まり、それがきっかけとなってインドは独立を勝ち得た。それとともに、イギリスはスリランカからも撤退したのである。
昭和天皇のお召し艦を一目見ようと港に駆けつけた少年ジャヤワルダナが、独立政府の要職についていた。そしてサンフランシスコ講和会議で日本を擁護する演説をすることになる。日本は明治以降、スリランカの人々の独立への希望に灯を点
してきたのだが、今度はそのスリランカが日本の独立を助けてくれたのである。
(文責:伊勢雅臣)