◎「生命の實相」の超生理学

 

 

◯ わたしの体験

 

 

 

わたしの体験で申しますと、わたしはずいぶん以前からたいへん胃腸が弱かったのであります。

 

 

 

胃は弛緩症(しかんしょう)で、胃の筋肉の収縮力が弱いのだそうで、何を食べてもなかなか腸の方へ行かないで長時間胃の方に溜まっていました。胃の中に食物が停滞している時間が長いので、食べた物が異常醗酵(はっこう)を起こして、腸へ行くと腸の粘膜を刺激するのだそうで、毎日下痢ばかりしているのであります。

 

 

医者は、「あなたのように胃の筋肉の弱い者は、胃筋の負担を軽くするためにできるだけ飲料を少なくとらねばならない、食事の時には絶対に飲料をとらぬがよい。それは消化液を薄めるとともに、胃筋の負担を重くする。飲料を飲むなら食間に、それも少量ずつ飲んで一時に胃腸に重荷をかけてはならぬ」というのです。一時私はずいぶん厳重にそれを励行したものであります。

 

 

そのころわたしの宅で世話していた親類の一青年などは、わたしが食事の時に一滴も飲料をとらないので、自分がお茶を飲みたくても非常に遠慮していて窮屈だったそうで、この事実は私の親類じゅう誰でも知らない人はないくらいであります。

 

 

 

ところが今ではわたしは食事の時にかなり大きな湯沸かしに、一杯の茶をほとんど一人で飲んでしまうこともあります。そうかと思うと一滴も飲まないこともある。

 

 

飲みたくば飲むし、飲みたくなければ飲まぬし、飲んでも飲まんでもその時の自然の本能にまかせているので、健康法のためにと思ってやってはいませんが、それでいて前には弛緩症だった胃が一升も茶を飲んでも別になんともないのであります。

 

 

 

わたしが、こういうふうになぜなれたかと申しますと、以前には胃袋というものは一種の物質の袋であって、ある目方以上のものを入れると、ゴムのように伸びてしまって収縮力を失ってしまうと教えられて、それを信じていましたから、信じたとおりにわたしの胃袋は収縮力を失っていたのであります。

 

 

 

ところが、わたしは「念(こころ)」と「肉体」との関係を研究しているうちに肉体の状態は念の状態を形にあらわしたものであるということがわかってきたのであります。

 

 

 

「念」を抜きにした胃袋そのものは収縮する力も消化液を出す力もない。胃袋を収縮したり消化液を出したりする力は念にあるのだ。

 

 

 

医者はわたしの胃袋を弛緩症だというが、本当は、食物や飲料を恐怖する念が、自分自身の恐怖心のために胃袋を収縮することを怠っているのである。

 

 

 

病気は念にあって胃袋にない。

 

 

 

今までわたしは胃病だと思っていたが胃病ではなかった ― こういう真理がだんだん明瞭にわたしの念に刻まれてくると共に、わたしはわたしの胃の弛緩症を実在しないものだと信ずるようになり信じたとおりにわたしの胃病は実在しなくなったのであります。

 

 

 

このわたしの経験と同じようなことがエディ夫人の著書のなかにもあります。。それは消化不良症の一児童にグラハム式摂食法を応用した実例であります。

 

この児童は消化不良症を癒すために、パンと野菜のみを食し、飲料はただ少量の水のみに限られていたのであります。しかるにその消化不良症は少しも良くならないでますます悪くなって来ました。で、彼はいっそう厳重に食養生を守ろうと決して一日一回ただ薄い一片(きれ)のパンだけを水もなしに食べることにしました。

 

医者はまた食後三時間たたなければ、その渇いた咽喉(のど)をうるおしてはならないというのでした。こうしてこの児童は数年間ほとんど飢餓の中で生活しましたけれども少しも彼の胃は丈夫になりません。

 

医者はあらゆる手段をつくしたがその胃病を治す術(すべ)を見いだすことができないので、「この病気は死ななければ治りますまい」といったりしました。病人の方でもこんなに苦しい希望のない生活を続けるくらいだったら死んだ方がましだと思いました。

 

 

 

この時、彼はエディ夫人と相識(あいし)るようになったのです。彼は病苦の数年を経過してもう青年になっていました。エディ夫人は彼に真理をといて聞かせました ―

 

 

 

病気と苦しみとは人間がわれとわが信念でかってに作った幻である。

 

 

 

愛の神、全能の神は決して病気を造りはしないのである。

 

 

 

だから病気は「実在の世界」にはないのである。神は決して断食や減食をしなければ健康が維持できないようには人間を不完全には造り給わなかったのである。

 

だから、断食健康法などというものは神の造り給いし「実相の世界」の健康法ではない。そんな健康法は夢の中でお化けに追いかけられてやはり夢の中で走って逃げているのと同じである。

 

夢の中のお化けが恐ろしければ夢の中で走って逃げてもなんにもならない。ただ覚めればよいのである。真理に目覚めればすべてのお化けが消滅する。つまり「生命の実相(ほんとのすがた)」がどんなに完全なものであるかを自覚したら、本物でないニセ物の病気はおのずから消滅して人間は健康になるのである。

― こう彼はエディ夫人から教えられました。

 

 

この真理が彼の病気を消滅させました。もう彼の胃袋は何を食べても痛みませんでした。また欲するものは何を食べても栄養になったのであります。

 

 

 

そこで皆さんにはこういうことがわかるでありましょう。食物が肉体に害になったり栄養になったりすることができるのは

 

 

「迷いの心」― 一種の信念 ― がかくのごとき力を食物に与えるのであって、食物本来の力ではないのであります。

 

 

食物は本来、人間に害を与える力も栄養になる力もない。ある人には栄養になる食品も、恐怖心をもって食すれば害になります。

 

 

 

ある人に害になるような食品も、神から与えられた食物に人間を害するものは決してありえないということを信じて食すれば害になるようなことはないのであります。

 

 

 

谷口雅春 著  「生命の實相第一巻」より

 

 

 

 

*昨日は秋晴れで靖国神社をお参りする事が出来ました。靖国神社の脇にある遊就館(靖国神社に関係の展示品)に行ってきました。入場料800円買って入ろうとしたら奉賛会員は無料とありましたので何の会費かわかりませんが以前入って欲しいと言われ毎年3000円?靖国神社に納めていますので調べてくれまして無料で入場出来ました。申し訳ないのと、やはりわずかでも寄付してるとお陰というものがあるものだなと有難く拝観させてもらいました。昨日書きましたように私の父が海軍でしたが生前中はほとんど戦争の事を言わなかったので、私が調べないと分からなくなると思い厚生省に頼んだら履歴がありました。履歴見ると生き残るべきして生き残った!というか不思議な思いです。いま海軍の本を読んでいまして、海軍用語とか生活とか一年に前期、後期があり編成が変わる事を知り、それにより履歴も一層明確にわかるようになりました。18歳で入り、頭が良かった事は母から聞いていましたので、金剛、羽黒、という戦艦に変わる事に海軍の学校に入り、海軍の機関学校から館山航空の学校に行き結局終戦は航空隊でした。やはりみんな死んで行くなか生き残った思いがあったのではと思います。帰り海軍の本を買いたいと思い神田神保町に行きましたら、古ほんまつりやっていまして、あまりの本の多さと、人、人で疲れたので今度ゆっくり出直す事にしました。今わかりましたがアメリカの軍人も家庭では一切戦争の話はしないということです。