◎ 「生命の實相」の超生理学

 

 

◯ 本能的の健康法

 

 

 

われわれがよく聞くことでありますが、「わたしは皮膚を鍛練するために毎日冷水浴をし、呼吸器を強健にするために戸外(こがい)で深呼吸をしているのにやっぱり風邪をひいて困る」というような人があります。

 

 

 

そうかと思うと「わたしは少しも固いものを食べないようにし、お粥や、パンやオートミールばかりを食べているのにしじゅう胃が悪くて困る」という人もあります。

 

 

 

こんな人が健康になれないのは、「健康」すなわち「生命力の充実」は何か物質的方法で来ると思っている根本観念に誤りがあるので、この根本観念に根本的革命を加えれば治るのであります。

 

 

 

「健康」すなわち「生命力の充実」は「生命」そのものを、順に、自然に、正しい道にのびのびとさせることによってのみえられるのであります。

 

 

 

そのためにはまず「心」が「迷い」から解放されて、その自然に帰らねばならないのであります。

 

 

 

「生命の實相」では、いわゆる「健康法」だの「衛生」だのというものを無視してはしまいますが、わざと不養生をしたり、不衛生をしたりするようにすすめるのではありません。

 

 

 

「心」が「迷い」から解放されて自然にかえり、「生命」が順に正しい自然の道にのるようになると、直角と本能とに導かれて、おのずから生活が本当の自然になります。

 

 

 

生活が本当の自然になれば、生活全体が健康法にも衛生にも自然にかなうようになって、今まで人為的に生活が健康法に敵うようにと心がけていたものが、今度は本能的に健康法に敵う生活ができるようになるのであります。

 

 

 

正しい本能は誤れる人知の小細工よりもわれわれを健康に導いてくれるのであります。

 

 

鳥獣は、彼らが自然の山野に生活しているかぎり、完全に健康であって決して病気にならないのであります。

 

 

雪を踏んで歩む熊も、露にぬれて餌をあさる小鳥も、寒さに負けて風邪を引くということはない。

 

 

それは生活が正しい本能に導かれ、自然に健康法にかなう生活をしているからであります。

 

 

 

ところが山野の鳥獣を捕獲して来て人間の雰囲気内につれて来ると、いろいろと暖房装置に気をつけてやっているにもかかわらず、ともすれば病気にかかったり風邪をひいたりするのであります。

 

 

 

これから考えてみましても風邪をひくというのは必ずしも寒さのためではなく、生活が不自然になったからだということがわかるのであります。

 

 

 

別所彰善氏の著書のなかにもお腹をこわしてもうほとんど動けないようになった猫をかわいそうに思って、どうせ死ぬなら暖かい柔らかな蒲団の上で死なせてやりたいといたわって柔らかな蒲団の上へ寝かせてやると、いつの間にかそこを逃げ出して冷たい土の上へ腹ばいになって、腹を冷やしてジッと死んだようになっている。

 

 

 

これではよけい病気に悪いだろうと思って、またまた柔らかな蒲団の上へ連れて来てやると、人の見ている間はそこにジッとしているが、いつの間にかまた冷たい土の上へ腹ばいになってジッとしている。

 

 

 

ところが、ちょっと人間知では衛生に悪いと考えられるようなお腹を土で冷やすということが、かえって自然な健康法であるということをこの猫は知っていたのであって、この自然的健康法が効果をあらわして、しだいにその猫が元気を回復してきたという実例が書いてあるのであります。

 

 

 

とにかく、人間は「自然に還る」ということが必要であります。

 

 

 

自然的健康法ということが唱えられますが、生活の形式を自然に還すまでに「心」を自然に還す、すなわち「心」から迷いをとり去るということの方がいっそう必要であります。

 

 

心が自然にかえれば、生活の形式もひとりでに自然に還るようになってきます。

 

食物の嗜好(このみ)などもおのずから変わってきて、自然に健康的食物が好きになってくるのであります。

 

 

 

『生命の實相』を読み出してから、いつの間にか食物の嗜好が、以前には濃厚な肉食が好きであったのが、近ごろはかえって淡白な野菜が好きになったといわれる方もあれば、酒やたばこが前には無くてはたまらなかったが、このごろは喫(の)むまいと思ったら無くてもすむようになったといわれる方もある。

 

 

以前には甘味品が好きであったが、近ごろは砂糖気のあるものは好まなくなったという人もあります。つまり、これは『生命の實相』を読んで「心」が実相を悟った結果、実相の反映として、その人の生活が自然に還るようになったのだと思われるのであります。

 

 

 

どんな修養でも、外から、形の方から「これは悪いことだからやめましょう」というふうに矯(た)め直すばかりで、内から「想念(こころ)」という映源(フィルム)に正しい相(すがた)を描かなかったら、一、二回は無理に抑えて正しい生活をしてみても、その抑えることが苦しくてたまらない。

 

 

 

内から「想念」が反発して来て不健全な生活へ誘惑する、そしてついにその誘惑に負けて外の生活の形もやはりまた元の不健全になってしまう、そこがいわゆる世間の修養というものの欠陥であります。修養は外から直してゆこうとする。ところが「生命の實相」はうちから、心の根本の自覚から変えてゆこうとするのであります

 

 

 

谷口雅春 著 「生命の實相第1巻」より

 

 

 

 

*私はヘビースモーカーで1日普通40本多い時は60本吸っていました。子供が産まれたのをきっかけにやめようとしましたが、何回やっても無理でした。それが練成を受けているうちに、又道路に落ちている吸い殻を見て地球を汚してはいけないねと思ったらそれから一本を吸わなくなりました。タバコは煙にまくと言って、自分を誤魔化し、相手を誤魔化すと教えてあります。練成を受けているうちに心が自然に変ったのではと思います。知人が肺の病気で片方の肺を取り、それを医者から見せられた時、真黒でコールタールみたいで、それを見た時タバコをやめたようです。

 

 

*今朝のテレビ朝日であの名前?人気のない人上から目線と嫌われている人!笑!がいつもの通り左翼も右翼も一緒なんだとか何とか言っていましたが、ヒゲ剃りながら遠目で見てたものでハッキリはわかりません、それで思い出したのが元産経新聞の方の講演を聞いた時、定年して昔の各新聞社の人と定期的に会うようになって驚いたのが朝日新聞の社説を書いていた人があれだけ左の猛烈な記事を書いていた人が定年後は我々とまったく同じ考えの人だったという事です。産経新聞の方は朝日新聞と言う会社がそう言うふうになっているのではと言っておられましたが、それにしても国民を惑わし、昔の言葉でいえば国賊ですよ!笑!話しは変わりますが、「生命の實相」を愛読されている弁護士さんがだんだん仕事とはいえ悪い奴を悪くないなんていえなくなって弁護士をやめるわけにはいかずどうしたらいいか祈っていたら、自然とそういう仕事がこなくなって自分の心に嘘つかなくなって良くなったと言うことが何かに書いてありました。私も営業やっていましたが、自然に当たり前(本当)の事が言えるお客様だけになりましたそれで成績も良くなりました経験があります。