◎「生命の實相」の超生理学

 

 

 

◯ 病気を超越する法

 

 

 

病気とは、心が病み、心が痛むのであって、心の病、心の痛みを「肉体が痛みを感ずる」という不合理な迷信によって、肉体の上に投影(かげをうつ)し、最後にその心の力によって、肉体の化学的成分、肉体の生理的作用にまでも病的変化を起こすことになるのであります。

 

 

 

ここの道理がわかって来ますと、われわれはけっして自分の欲しない肉体の状態を、自分の心に想像しないようにしなければならないのであります。

 

 

 

肉体を強くしたいと思うものは、かりそめにも、自分の肉体を弱いと思ってはなりません。また「弱い」といってもなりません。

 

 

 

世間にはおうおう「わたしの生まれつきは体質が弱いもので」などと口癖のように弱音を吐く人がありますが、言葉は必ずその言葉の意味相応な想念感情をよび起こし、その心の働きに従って肉体もまた弱くなって来るのであります。

 

 

 

一つの病気が肉体に発生する ― それは水仙の球根から芽が出て蕾(つぼみ)ができ、花が咲くようなものであります。

 

 

 

水仙に水仙の花が咲いてはほかの花が咲かないのは、水仙の心の中に水仙の花の形が貯えられているからであります。

 

 

 

中耳炎になるとか鼻茸(はなたけ)ができるとかしますと、外科医やふつうの人たちは、ただそれは肉体にだけ病気の部分ができたのであるから、その病気のところを切ってほかしてしまったら、もう病気は無くなるように思っています。

 

 

 

けれどもいくたび施術して病気のところを切ってほかしてしまいましても、その施術と同時に心の病気を消滅さすことができなかったものは、いくたびでもその病気が再発するのであります。

 

 

施術しまして病気のところを切ってほかすということはなるほど、一時的には手っ取り早い治療法には相違ない ―それは水仙の花の嫌いな人がその「花」だけをことごとくキレイに切ってほかすようなものであります。

 

 

 

しかし、その水仙が生きているかぎりは、そのうちに「花」や「蕾」の元になる「念(こころ)」があるから、また「蕾」をこしらえ同じ形の花を咲かせるようになるのであります。

 

 

 

病気もまたそのとおりで、施術は手っ取り早いが一時的の効果しかない、心から「病気」の素を取り去るのは、たとえば水仙を根から引っこ抜いてほかしてしまうようなもので、根から引っこ抜いても、水仙の花はしばらくはいきいきとしているかもしれないが、今度こそは根本的にその花が出なくなり枯れてしまうのであります。

 

 

 

水仙には水仙の花が咲き、梅には梅の花が咲くように、人間にも、おのおのの人に時々咲き、出でる病気には一定の型があるのであります。

 

 

耳の悪い人は一時治っていたかと思っても、またしても耳鼻咽喉系統の病気にかかる。ずいぶん消化器などは達者なのに、風邪ばかり引いているという性質(たち)の人もある。

 

しじゅう胃腸が悪いのに決して耳鼻の病気にならないという人もある。

 

 

 

このように人間の病気にも一種の「傾向」とか「個性」とでもいうような一定の型があるのは、水仙の心から水仙の花ばかりが咲いて他の花が咲かず、梅の心から梅の花が造られて他の花が造られないと同じであって、これは、病気の本源が心にあって心に設計されたプランのとおりに、肉体にその病気が具体化して来てその他にはなりえないという証拠になるのであります。

 

 

 

で、あらゆる病気にかからぬようにするには、心のうちにあらゆる病気の設計図を描かぬようにしなければならないのであります。

 

つまり決して病気というものを心に思わず。

 

病気の説明の本を読まず、治療法や売薬の広告を読まないようにしなければならないのであります。

 

 

 

こう申しますと、なかには「自分は病気のことなど一度も思ったことがないのに、病気にかかっているではないか」と抗弁せられる方もありましょうが、そんな方はまだ「心」というものの研究がたりないのであります。

 

 

海の水を見ていると紺碧に澄みきってその中にはいっけんなんにもないように見えるかもしれない。けれども潜水眼鏡をつけて海の中にはいって眺めて見ますと、いつの間にはいったのか、いろいろのものが沈んでいる、

 

 

いろいろの生物が泳いでいる、その中には人間にとって有害なものもあれば有益なものもあると同じように、われわれの意識(こころ)の海の中にはいつの間にはいったのか、ふとした新聞広告や電車内広告の記事からでも病的観念が染み込むので、いろいろの観念が泳いでいるのであります。

 

 

 

このいろいろの観念の中から、われわれの害になる「病気の観念(たね)」だけは病気になりたくない人はぜひとも取り除かなければなりません。

 

それには一種の人的施術が要るのでありまして、今後なるべく病気を思わないようにするというだけの消極的手段だけでは、もうすでに「心」の底にはいり込んでいる「病気の観念」を破壊するにはたりないのであります。

 

 

こちらから進んで積極的に、すでにはいり込んでいる「病気の観念」を攻撃し、破壊するようにしなければならない。

 

 

 

それには、「病気の観念」を積極的に攻撃して、「おまえはわたしの心の底にいる権利があるように主張しているけれども、おまえは本当はわたしの心のうちにもどこにも存在する権利はないのだ。神の造らないところのなんじはいかに実在するかのような仮面をかぶっていても、本当は実在しないではないか」という道理を諄諄(じゅんじゅん)と自身の病気に説き聞かせてこれを論破する必要がある。

 

 

 

静座と精神統一と信仰とをむすび合わして、「病気の観念」を論破して本来の無に帰せしめる方法が、生命の實相道場で毎日実修せしめている「神想観」であります。読書によって自身の「心」に諄々と説いてきかせて「病気の観念(たね)」を論破して、本来の無に帰せしめる方法が、『生命の實相』の毎日読誦法(とくじゅほう)であります。

 

 

 

『生命の實相』を毎日繰り返し読んでいるうちに病気が治ったとの報告があるのは、ちょっと聞くと不思議な奇跡のようでもありますが、われわれの「意識(こころ)」と肉体との関係を十分研究してみるとそれは当然の科学的結果であります。

 

 

 

 

谷口雅春 著 「生命の實相第一巻」より

 

 

 

 

* 昨日久々に腰がいたくなり、わあ!大変だなと思いましたが、直ぐ何で腰が痛むと思い昨日のブログを思い出し筋肉は痛まない、骨は痛まない、筋も痛まないと思いながら今痛んだのではない、今迄に腰が痛むような(荷物等持つ時一番重心がかかるところ)な思いしたかなと考えたら、ありました。私のうっかりミスで相手に迷惑をかけていました?それかなと思い心で「私は貴方を赦しました,貴方も私を赦しました。私と貴方とは神の御名において一体であるから私と貴方との間には何のわだかまりもありません。だから私は貴方を愛しています。貴方も私を愛しています」と2〜3回唱えてホッテいましたら、もの凄く痛くなって、慌ててサロンパスをはり、笑、忘れていましたら、いつの間にかほとんど痛みは消えていました。笑、今朝起きた時も少し痛みましたが、もうほとんど痛みはなくなりました。サロンパスのはったという安心感と心の痛み(罪)を掘り起こし捨てたので消えたたのでしょう!笑、でもあれだけの腰の痛みがこんなに早く消える事はないですね!間違いない!教えのお陰ですね!人生何か出てくるものです。でも何時もこうやって治していますと、本当に簡単に消えていきます。有り難いですね!