◎ 〝国〟というものの無い日本国

 

 

 

わたしは幾度も幾度も、マッカーサー元帥が占領中に占領軍の威圧の下に押しつけた所謂「日本国憲法」を読んでいるうちに、重大なことを発見したのである。

 

 

 

それはこの憲法によれば、「国」という字は諸方に書かれてはいるけれども、実際的に「国」というものが存在しないことを知ったのである。

 

 

 

たとえば、家永教科書裁判、において、文部省が家永三郎教授著の『新日本史』を教科書としては不適当であるとみとめて検定から外したのに対して、杉本良吉裁判長は、

 

 

 

「国家には国民に対する教育権はない、『検閲は之をしてはならない』と憲法第二十一条にあるのに文部省はそれを犯したのであるから」として“国”側が敗訴になったというのである。

 

 

 

ここでは明らかに、自民党内閣の文部省が行ったことが“国”がそれを行ったということになっているのである。

 

 

 

それ故に家永三郎教授は、文部省が同氏の著作を、教科書としては不適当であると検定から外したために、その書の印税として収入さるべく予測されていた金銭が家永教授に収入出来なくなったから“国”に対してその損害を賠償するように訴訟を起こしたのであった。

 

 

 

これは「日本国憲法」第十七条の、何人も、公務員の不法行為により、損害を受けたときは、法律の定めるところにより、国又は公共団体に、その賠償を求めることができる、の条項解釈の下に行われた訴訟である。

 

 

 

文部大臣又は文部省所属の官吏の行為に対して“国”が損害賠償するという規定は“国”と行政機構の中の、官吏、とを混同するものである。

 

 

 

どうしてこのような混同があらわれて来たかというと“国”という概念が曖昧漠然としていて、換言すれば“国”なるものがハッキリ存在しないのが現行の憲法であるから、その漠然とした霧の中に官吏が融け込んでいて、官吏が行為したことが“国”がしたかの如く混同せしめられるのである。

 

 

 

だいたい現行の日本国憲法には「中誠の対象となるべき歴史的伝統をもつ不変の、人格、としての国」は存在しないのである。

 

 

 

明治憲法に於いては、その第一条にハッキリと「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と万世一系の人格的内容をもつ“国”なるものが明記せられていて、吾々国民には、忠誠の目標・対象となるべき国家が厳然と存在していたのである。

 

 

 

しかし占領憲法には、その第一条に「天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」と書かれているけれども、その「日本国とは何ぞや」という定義も規定も内容の表示もハッキリしていないのである。

 

 

 

日本国憲法に最初出て来る“国”なる語は、憲法前文に、

 

「わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」とある一節に書かれている

 

 

 

「わが国」という語が、この憲法にあらわれたる「国」という字を使った用語例の最初である。

 

 

 

しかし、この「わが国」は直ぐ「全土」とつながっているので、この「わが国」とは「わが領域」という意味にもとれて、血の通った「国家」ではないようである。

 

 

 

そして、その「わが国」は、次にある「政府」と対立した存在になっていて、政府、が、わが国、に戦争の惨禍を再び起こさないようにするために、この憲法を確定するという風な行文になっているのである。

 

 

 

ここでは、政府、即、わが国、ではないのである。

 

 

 

政府は、行政府、であって、もし戦争を起こしたら、わが国、は被害者であるのである。政府の官吏の行為によって起こった損害は“国”に対して賠償を求めることが出来るという、この憲法十七条の規定は、この場合変なことになるのである。

 

 

 

惨禍を受ける被害者である、わが国、が賠償を国民に支払うということになるのである。

 

 

 

こうして、ひと筋の合理的な論理が通らないのは、この憲法に“国”の定義もなければ、内容の表示もないからである。

 

 

 

そしてこの憲法の前文はつづいて言う。

 

「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」国政というものは“国”の行政であるが、その行政権は、内閣に属する(憲法第六十五条)となっている。

 

 

 

 

◯ 忠誠の目標が変わる

 

 

 

どのようにして国民が、国政を行政府に信託するかというと、憲法第四十一条に

 

「国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である」と定められて、国会に於ける立法を通して「主権をもつ国民」が、その権威と権力とを行政府に信託委譲して、その委譲した権力の執行によって得た福利を国民に還元するというようになっているのである。

 

 

 

すなわち、主権、をもつのは国民であり、その、主権の行使、が行政であり、選挙によって代表者を選び、その代表者に、その、主権の行使、を信託委譲する。

 

 

 

行政権を委譲されたその代表者が政治を行うために内閣をつくり、その代表者のうちの首長が総理大臣となり、総理大臣が閣僚たる諸大臣を任命して、国政を各省等に分類して分掌せしめるということになっているのである。

 

 

 

その閣僚たる諸大臣の一人が文部大臣であり、その文部大臣以下の文部官吏が行った教科書の検定が、「検閲は、これをしてはならない」という憲法第二十一条の禁止条項を犯して行なわれた不法行為の結果、家永三郎教授は憲法第十七条に基いてその損害賠償を“国”に対して支払えという訴訟を起こしたというのであるが、

 

 

 

以上、日本国憲法の前文及び諸関係条項にもとづいて精細に分析してみたけれども、どこにも“国”というものは、私には、(少なくとも私には)見つからないのである。

 

 

 

「国政」という文字は、たしかにあるけれども、それは「主権の存する国民」の行政府への委譲であって“国”という独立した一貫性ある、人格的尊厳、をもった存在はどこにもないのである。

 

 

 

つまり「国に対して賠償を支払え」と要求することは、「主権の存する国民」に対して賠償を支払えということなのではないか。

 

 

 

それとも、国、という者が賠償を支払うとすれば、一体どこから賠償を支払うのか“国”そのものの存在が曖昧なので、私には訳がわからないのである。

 

 

 

最近、靖国神社国家祭祀の法案が審議未了で今国会では廃棄の余儀なきに至った由であるが、私はこの案の精神には賛成であったが、「“国”が靖国神社を祀る」という場合“国”の定義も内容も不明瞭なので、賛成意思発表をさしひかえていたのである。

 

 

 

おおむね、行政府のしたことを「国がした」とみとめて「国に賠償を支払え」という訴訟が成り立つとしたならば、行政府が自民党である場合には自民党政府が靖国神社を祀るのか、「国が靖国神社を祭祀する」ということになるだろうが、

 

 

 

行政府が自民党でなくなって、かりに共産党政府が出現した場合、「国が靖国神社を祀る」という場合には、共産党政府が靖国神社を誠心をもって祭祀することができるであろうかという問題があるのである。

 

 

 

いやしくも“国”というものは行政府のイデオロギーによって、その内容がくらくらと変わるようなものであってよいのだろうか。つまり、くらくら変わるような内容のものは「本当は存在しないから変わる」のである。

 

 

 

統治機構や、行政機構を、漠然と“国”そのものと混同してしまって国民が忠誠をつくすべき対象が何者なのか、訳のわからない存在にしてしまっているのが今の憲法なのである。

 

 

 

三島由紀夫氏が、現行の憲法によって、日本国民は「忠誠の目標を失った」と歎いて自刃したのは無理がないのである。

 

 

 

一国の国民が、ある時は自民党政府に忠誠をちかい、ある時は共産党政府に忠誠であるよりほかに、国に対する忠誠のつくしようがないなどということは、それは忠誠ではなくて、時の権力者に対する奴隷なのである。

 

 

 

1日も速く、現行占領憲法を廃して、行政機構や統治機構を超えた超越的価値をもつ歴史的伝統ある日本国に家の存在を規定した明治憲法への復原がなければ、日本国民は愛国の対象を喪失してしまい、日本国家はその存在を近いうちに没してしまうことを私は憂えるのである。

 

 

 

谷口雅春 著  「私の日本国憲法論」より

 

 

 

*  1日も早くこのニセモノ憲法を改正して欲しいものである!安倍総理が必ず現憲法に風穴を開けてくれる事を祈ります。