生命の実相第9巻

霊界篇第一章

 

差別心より観たる霊界の消息

 

……(途中省略)……しています。

 

(十七)

スピリット自身はいかに「死の神秘」について語るか

 

 

ヴェッテリニは語るー死期はあらかじめ定められている。

 

病気および災厄(さいやく)は、あらかじめ定められたる運命を成就せんがために、霊界の不可視の使(スピリット)がその人を導くところの手段である。

 

 

「生」は、時として臨んで来る「死」に対して極力争おうとする。

 

 

このことは死の神秘を恐怖する未発達霊魂の人々において特にそうである。

 

 

しかしながら霊界の使者(メッセンジャー)か霊魂の脱出するのを待っている。

 

 

そしてこの世の終焉が来たときには、そのメッセンジャーが助けてくれる。

 

 

もし必要な場合には、彼は強いて霊魂を脱出せしむることもあるのである。

 

 

肉体をはなれたる霊魂は、高級なスピリットー白色のスピリットであるーの集会の前につれて行かれる。

 

 

高級なスピリットはこの新参の霊魂の進化の程度を識別(みわ)ける。

 

 

もし進化の程度が低ければ、その霊魂はある長期間、あるいは短期間、地上の雰囲気内を彷徨(ほうこう)しまわり、自己が肉体的生活を営んでいた頃の生活を回顧(かいこ)し、他界より人生の争闘を観察して自己の責任を自覚せしめられ、自己の意識を発達せしむることを学ぶのである。

 

 

これらのことは、まず新参の霊魂が高級のスピリットに引き廻されてするのであるが、やがてただひとり、あるいは同じ程度の進化にいる霊魂たちと一緒に、あるいは無関心な気持ちで、あるいは悲嘆にくれながら、あるいは愉快な心持ちで(これらの気持ちの相異は霊魂そのものの進化の高さで決まる)空間をうろつきまわる。

 

 

 

そしてやがて時が来るーそれは多少とも長き期間の後である。霊界の支配役のスピリットが、彼を再び地上に送るーそれは新しく生まれかわって、なおいっそうその霊魂を向上せしむるための経験を受けしめんがためである。

 

 

もし、肉体をはなれた霊魂がすでに秀れた進化をとげた霊魂である場合には、みずから進んで、ある一定の目的のためにさらにもう一度地上の世界に生まれかわって出ることもあるのである。その一定の目的とは、自己犠牲の行為によって、自己をいっそう高き進化の圏内に運ばんがためである。

 

 

 

ヴェッテリニのごときスピリットは、ただかくのごとき目的のために、この地上に帰り来るのである。しかし、標準としては、ここまで高き階級に達したる霊魂がさらにいっそう高き進化をとげるのはその霊界における活動によってである。

 

 

彼らは白色スピリットとなるー地上の世界に関するあらゆる事件の比較的最上権を有する審判(さば)き役となるのである。

 

 

白色のスピリットは更に進化をつづけて他の「霊圏」に入るのであるが、この「霊圏」のことは人間にとっては知り難く了解し難きものである。

 

 

ヴェッテリニはそれについて(少なくともその瞬間)は語ることを拒んだのである。しかしながら、自分はこの一段進んだ「霊圏」いなむしろ一段進んだ状態においてはー自分がここに状態というのは、彼らがより高き地圏に生まれかわって来るのではないように思われるからであるーかかる高級なるスピリットは、あらゆる地上的な興味を全然超越してしまっている。

 

 

かかる興味は彼らにとっては全然無意義である。

 

彼らは地上的なるものより一段高く生長してしまっているということを言葉の端より総合しえた。

 

 

(著者注)

霊界はどこにあるかの問題は今なお論議のつきない問題である。

 

しかし地上に浮浪する階級の霊魂の住む世界が、われわれの住んでいるこの地上と同じ圏(ところ)にあるということはたしかである。空気とエーテルとは同じ場所に共在しているであろう。

 

それと同じようにスピリットとわれら生者とも同じ場所に共在しうるのである。

 

われらは死せば「空気の世界」から出て「スピリット質の世界」に移行する。

 

「スピリット質の世界」は科学者のいわゆるエーテルとは別もののようである。が「空気の世界」と共在しうることエーテルと同様である。

 

 

この地上に浮浪する階級の霊魂の世界はいわゆる「浮浪霊の世界」であって、霊魂の落ち着くべき純粋の「霊圏」ではないようである。霊圏の最下層は、地獄ないし憐獄的状態であって、すでに「浮浪霊の世界」ではない。

 

最下層の上層すなわち第二層霊圏には常人すなわちきわめてふつうの霊魂が住み、地上に指導のために神懸かりして来るスピリットの世界は、この第二「霊圏」の上層に住むものが多いとのことである。

 

元英国心霊科学大学の学長マッケンジー氏が、みずから霊魂出遊の方法を用いて探検したと称するところによれば、霊界は七圏にわかれて地上の霊魂を教育するために降ってくるのは、おおむね第二霊圏の上層にいるスピリットであって(これが青色のスピリットである。このスピリットが一段の進化を遂げれば、その青色がいよいよ冴えて白色のスピリットになるという)それ以上の階級のスピリットはめったに地上の世界のことには関係しないといっている。

 

 

霊媒(れいばい)に憑(かか)りて人間を惑わせるのは「浮浪の霊」が最も多く、人間界指導のために神懸かりする第二層の霊界人はこれにつぎ、白色スピリットにいたってはきわめて稀である。

 

マッケンジー氏は霊界の各圏と各圏との距離までも計ったと称してその数字を発表しているが、距離は相対的認識の尺度の一種であって、境を異にするとき、(すやわち霊界においては)その数字が地上のわれわれにとって何を意味するかすこぶる不明瞭である。しかし霊能力者が霊魂を出遊さすとき、上昇または下降の感覚を味わうのは事実である。

 

 

「浮浪霊の世界」は現世的地上雰囲気内に共存しうるが、霊圏の第一層はある霊魂の通信によれば、地表よりも低しといい、ある霊魂の通信によれば地表よりも高しというが、位置の高下や、距離の感覚が、「思念とほとんど同時に、その念ずる場所に到達しうるような霊魂」にとって何を意味するかは、われらの地上的感覚をもって類推することはできない。またある霊魂は肉体死後、無意識状態のまま、自己に割り当てられた霊魂につれ行かれてそこで目覚めるからその霊魂が地表よりも上層であるか下層であるかを知らないことは、われらが睡眠中にビルディングの幾階目かに運ばれて目覚めた時に自分が何階にいるかがわからないのと同様であろう。

 

 

自分は、帰幽せる霊魂が白色のスピリットの審判廷に連れ行かれて審判きを受けるという問題に復(かえ)っていったーそれはわれらの地上の社会的秩序の観念にあまり似ているのでおもしろくない気がすることを自分は告白したのである。なぜ、霊魂の階級別けが自動的に行われないのであろうか。

 

1つの霊魂はその前生において、他の人間の批判には関係なしに一定の進化を遂げる。いわゆる審判廷なるものがある時は、必然に人間的要素が入り込むのである。では、この霊界の審判廷ースピリットの設立した法院ースピリットたち自身の考案で設けられた裁判廷ーはしたがって弁論に付せられるものであろうか?それとも、それはいっそう高い法則の機能であろうか?

 

 

 

ヴェッテリニの答えるところによればー何よりもまずわれわれは、地上の世界の関係を言い表す言葉で霊界の生活状態を説明しなければならぬのだということを念頭に置いてもらわなくてはならないのである。

 

現世の人間の言葉で霊界の生活を言いあらわそうとするとき、混雑やまちがいの起こるのはやむを得ない。さて霊界の審判は、われわれの言葉の意味するような意味では、白色のスピリットの宣告する判決でも、有罪無罪の宣告でもないのであるーそれはまったくちがう。

 

死後肉体をはなれて帰幽せる霊魂は、これら高級なるスピリットの前に、生前いかなる生活をなせしかについての責任を自覚せしめられるために連れて行かれる。帰幽の霊魂の階級別けを生ずるのは、その時生ずる霊魂自身の良心の審判によるのである。換言すれば、新参の霊魂が白色のスピリットの前を通過することは、ちょうどわれらが鏡の前を通過するに等しいのである。彼はその時、自己自身の本当の相を自覚するのである。

 

 

地上の生活とは全然異なる状態をわれわれは理解することは不可能であるがために、霊界の生活の秘密を闡明(せんめい)することは困難なる問題である。しかしヴェッテリニはなおいっそう十分なる説明を後の機会に与えることを約束した。われらはまたねばならない。(1913年2月21日)

 

 

「死」の一般的問題について自分はまたたずねた。ヴェッテリニは説明を単純化するために進化の程度を四段階に分けて、これらの各段階の霊魂が地上の生活から霊界へうつり行く状態を説明してくれた。

 

 

 

第一階級ー最低級ーこの階級の霊魂は自己の宿っている肉体を最後の極度まで使うのである。その霊魂は自己の機関とする肉体に言葉どおりしがみついているのであって、この階級の霊魂を肉体から引き離すためには、時として霊界のスピリットの干渉が必要であるのである。この階級においては、死後少しも意識をもっていない。かかる霊魂は地球の低い雰囲気内をいわば「昏睡」の状態でなまくらに彷徨しながら、次なる生まれかわりの時期を待つのである。

 

第二階級ーにおいては、肉体を去って帰幽せる霊魂は霊界のスピリットの群れによって迎えられる。これらのスピリットたちは帰幽の霊魂の意識を目覚めしめ、その責任の観念を喚び起こそうとするのである。彼らは帰幽の霊魂の能力に応じて死の現象のなんたるかを理会せしめようとするのである。かかる帰幽の霊魂が今度生まれかわってこの世にでる場合には、前なる生涯においてしたところの生活ーそれが善であろうと悪であろうとーの反動的生活を営もうとするのである。そしてこの反動的生活を通じて彼は自己の責任感の幾分をあらわにするのであろう。

 

 

第三階級ーの帰幽の霊魂においては、すでにある程度の意識を発達させている。彼は責任を知っている。それは帰幽の前においてさえも、睡眠または昏睡状態中すでに、自己を待っているところの霊界の状態を予見することができるのである。死に面してその人が一定の態度ー恐怖ないし平安ーを示すのはこの予見によるのである。すなわち睡眠または昏睡中の予見にもとづいて、意識が昏睡から覚めたときに漠然たるそれとなき予感におそわれるのである。かかる霊魂がいよいよ肉体をはなれて、霊界の案内者に導かれて白色のスピリットの居並ぶ前につれ行かれれば、彼は自己の過去の生活をスッカリまざまざと意識せしめられ、その責任を感ずるのである。この程度の進化状態においては、帰幽の霊魂は自己の

未来の生活に横たわっている試練の火を理会と諦念(あきらめ)めとをもって受けることができるーなぜなら彼みずから試練の火の必要をさとっているからである。

 

 

第四階級ー最後にこの階級の進化を遂げた霊魂においては、臨終にのぞんで運命の修正を申し出ることもできるのである。

ーこれは今日、青色スピリットがレイヌに説いたところであるが、ヴェッテリニはそれを次のごとく説明したー運命によって定められた死期が近づいて来たときに、ある程度まで発達した霊魂は、肉体の睡眠中または無意識状態中に肉体を脱出して、司配級のスピリットの所へ相談に行くことができる。これらの司配級のスピリットに助けられて彼は自己の生活について負うべき責任とその結果とを完全に意識する。このとき、もしその霊魂がーすでに高き進化をとげているのではあるがーなおしばらくの間この世に生まれ代わって来る必要がある場合には、彼はあらかじめ定まった時刻に死なないで、その瞬間まで耐えしのんできたところの同じ苦痛の状態を、数年間ないし数ヵ月間継続して、ふつうならば受ける

べきはずの、もう一度この世への「生まれかわりの」緩徐(かんじょ)な過程を踏まないで、地上における最後の進化を、生まれかわりを省略して、高速度に完了するのである。

これは白色のスピリットの非常な恩恵的取り計らいのように思われるのである。(1913年4月14日)

 

 

 

谷口雅春 著  「生命の實相」第九巻より

 

 

 

 

* 差別心より観たる霊界の消息は、まだ沢山ありますが、取りあえず次回で終わります!

又「生命の實相」第10巻には「平等心より観たる霊界の消息」が書いてあり、巻頭に下記のように書いてあります。

 

この世の中には合理的・科学的にどうしても割り切れない問題があります。

突然ある人が神ガカリとなり、日常の問題―スポーツ、芸能、政治、経済の問題―等をピタリと言いあてると、世間の人はすぐにその人を神様扱いにする。だがそこからは、“人間如何に生くべきか”の崇高な真理は何一つ生まれてこないのです。しかし本書にみるように、高級霊からの通信には、人間の究極の真理が述べられ、それがそのまま現実生活の法則に活きてくる驚くべき事実があります。この事実の認識があってはじめて充実した人生といえるのです。

 

◯ 生命の実相第10巻 霊界篇下のはしがきには

 

霊界通信には全然真実性のない低級霊からの通信もあれば、崇高な真理を説く非常な高級霊からの通信もある。しかし高級霊からの通信は非常に少ないのである。なぜなら高級霊は地上の生活にあまり興味をもたないからである。本書の第九巻にのせたフランス霊媒家にあらわれたヴェッテリニやアガシャの霊のごときは高級霊であって、地上人類の最後の運命の予言までもしていて、現在までその予言の大多数が的中しているのである。そしてその説くところは秩序整然、人間智の及ばないような深い真理を説いているのであるが、現象界の人類の運命の遷りかわりや死後の霊の進化のごときはいずれも差別界のことであるからわたしは第九巻において「差別心より観たる霊界の消息」としてそれを紹介しておいた

のである、本巻における「平等心より観たる霊界の消息」は差別界の霊魂の位相の相異や現象的変化を超えて、すべての人類に平等に宿るところの神聖性に貫穿(かんせん)し、神性仏性を端的把握しえた境地において人間の実相を直視しての霊界通信である、この霊界通信を寄越した霊魂は、よほどの高級霊であり、差別を超えて人間のすでに完全なる実相を説くのである。……省略

 

これもいずれブログに書く予定です。