生命の実相第9巻

⑦ 霊界篇第一章

 

差別心より観たる霊界の消息

 

……  (途中省略)しています。……

 

(十三)

 

1913年1月13日

 

レイヌには特になんらの通知も与えなかった。けれども彼女はやって来た。各晩とも常とはかわったことは何も起こらなかったそうである。ただ彼女は毎朝目が覚めると非常な疲れを感ずるのであった。

 

自分は周到綿密に教えられた方法に従ったがうまくいかなかった。間断なく彼女は無作法な動作をし、いらいらしているように見えた。「だってだめですわ」「雨が降ってるんですもの。実に湿っぽい天気だ。寒い!」 やがて彼女の態度や表情ががらりとかわった。彼女は自分の袖や裾が濡れてやしないか、それをパタパタ叩いている。突然彼女は無言の会話をはじめたー頭を打ち振り、論争し、反抗し、つかみかかるような態度までした。それは食事の問題である。それはあまりな要求です。(こう叫んだ彼女の声はあらあらしかった)しかし権威あるヴェッテリニはいかにしてこの苦行を彼女に課すべきかについてよく知っていた。

 

 

 

彼女はぐしょ濡れになるのが恐ろしくて、もう出かけないつもりで帰って来た。ヴェッテリニはその時突然姿をあらわした。そして再び出かけるように命令した。彼はきわめて激しい調子でー霊は雨を恐れる必要はない彼女は前の霊界出遊にはひとりで出かけたと思っていたが、ヴェッテリニが助けていたことを聞き、ではほっておいてください。わたしひとりでいってみますわ。ヴェッテリニは満足した。ヴェッテリニは前回にいったとおりの晩に彼女を霊界につれていったのであった。しかし彼は彼女が覚めたときにこの実に奇怪な出遊の記憶をもってくることを妨げたのであった。なぜなら彼女の普通生活がそれによって掻き乱されるからであった。彼女はいったー「もし覚えていたら、わたしはそのほかのこ

とは何ごとも考えることはできないでしょうよわたしは自分をへんてこな異常な人間だと思って、気が転倒してしまったでしょうよ。それでヴェッテリニはその記憶を切りとってしまったのです。」

 

 

 

 

「あの方は時々わたしを訓練するために、わたしが仕事をしていない時に来られます。(彼女の手は痙攣していた)しかしそれを知ることは許されないのです。…あの方はすぐこれから起ころうする事件を何かわたしに書かせようというんです。それは予言です。書いたものはあなたのところへ持って来ますわ…あの方はその時わたしに、この周囲にあるあらゆるものを見ることを教えてくださるはずです。いろいろの物、人間、あなたとコルニリエ夫人、あなた方のポケットに何があるかということ、机の抽き出しにはいっているもの、箱の中にはいっているものなどのを透視してそれを書くことを教えてくださるのだといいます。まあなんてむずかしい仕事でしょうね。そうはお思いなさらない?むろんわたしは

幾度も失敗するでしょうよ。だってヴェッテリニはわたしが失敗するのを待っていて教えようとおっしゃるんですもの。あの方はあなたにわたしの姿をーわたしの幽体があらわれているのをー見せたいとおっしゃっていますわ。あなたは何かあなたにさわったように感じなさいますでしょうよ。また小さなものが置いた所にないことにお気が着きなさいましょうよ…部屋のなかは、この現象を起こすために暗くしておかなければなりません。暗くしてあるとわたしの力が非常に出やすいのです。」

 

 

 

二、三の説明があってのち、彼女は覚醒状態に導いてくれといった。が、自分は彼女を覚醒状態に誘導するための施法を行う前に、目が覚めても決して頭は傷まないと強い暗示を与えるように注文せられた。というはヴェッテリニがもう彼女に言葉でものをいわないために、彼女は非常に努力してヴェッテリニの思考を透覚しなければならなかったからである。自分はその注文どおりを行なった。そして彼女は安らかに静かに目を覚ました。

 

 

(十四)

 

1913年1月15日

 

ヴェッテリニがレイヌをしていわせたところによれば、われわれの実験会はすでに決まった方向に向かって継続して行わるるのだそうである。その方向とは死後存続する霊魂についての証拠を得ようとする非常に細かい点に注意を払った努力である。彼はどうしてもなくてはならぬ実証の必要さを知っていたかのように思われる。で、彼はみずから進んで次の実験を行なおうと申し出でたーわれわれおよび霊媒の少しも知らない死者の誰かの霊魂をヨビ出して、証拠をあげうる方法でその真実をあかししようというのである。ヴェッテリニたちの目論んでいる書物はそれとは離れた一つの仕事であって、それは決して自分の研究を妨げはしないとのことである。

 

 

 

レイヌはこう言いたしたー「しかしわたしは肉体死後の霊魂たちのへ行って、彼らをここへ伴れて来て彼らの語るところをあなたに取りつぎうるところまで修行ができなくてはなりません。ヴェッテリニはこのためにわたしを訓練しているのです。この状態にはたしかにわたしはなりうるでしょう。この次からはヴェッテリニがわたしの肉体をつかってあなたに直接話しうるようになります。」彼女は吹き出すように笑いだして「あの方がわたしの肉体をつかって話し出したらさぞおかしいでしょうよ。だってあの方ときたら厳めしい底力のある声で重々しい身振りをなさるんですもの…このわたしの小さい身体、わたしの声、わたしの手をつかって、あの方が談し出す様子ったら、とても想像もできませんわ!」

 

 

 

この一時的憑依(いちじてきのりうつり)のきわめておもしろい説明が続いたのちこの実験は終わった。覚めるにのぞんでレイヌはいったーヴェッテリニのようにいちじるしく進化をとげたスピリットは物理的心霊現象を引き起こすことはできないのである。「そんな現象をあらわすことができるのは低級霊ばかりです。低級霊にそれができるのは、その幽体がいっそう物質的でいっそう濃厚だからです。高級霊はわれわれの感覚器官でみとめられないようなまったくわれわれとは実質のちがった霊体をもっています。高級霊がわれわれの感覚器官にみとめられようとする時には、低級霊を仲介的道具としてつかうのです。」

 

 

 

このことを書いておかなくてはならない。ヴェッテリニはこういった。ーレイヌはあの書物の内容をすっかり書くであろう。黙示がしめされるのはレイヌを通じてであるが、彼女はそれを部類別けすることができないであろう。それを修正して出版することは自分の仕事となるわけである。

 

 

 

(十五)

 

…… 途中省略……してあります。

 

1913年1月17日

 

長時間にわたる交霊会だ。言葉の調子、態度および身振り、それから霊媒の言い違い、その訂正(これらはこの場合の価値をいちじるしく高めるものである)などにいたるまで、その詳細を書きとめておくべきであったが、不幸にして自分が書きとめえたのはその主要な部分のみにすぎない。三十分ばかりすると彼女は大声でしゃべりはじめた。彼女の幽体はこの画室にいてヴェッテリニおよびその他の霊魂人(スピリット)を見ているのである。彼女はこの室の空中に昇ったり降りたりしてうごいている数人のスピリットをしげしげ打ち眺めて調べてみようとしているのである。。彼女は彼らにさわってみようとし、掴んでみようとし、そしてうまくゆかないので弱っている。

 

 

 

彼女はすぐに了解しきれない時には疑問を繰り返すか、与えられた説明をオウムがえしに投げ掛けて、いっそうわかりやすい説明をしてくれるように請求した。そして彼女は自分の心に得心のゆくまでヴェッテリニに議論を吹きかけたり、愚痴をこぼしたりしていた。この小娘の執拗さは見ていても実に驚くべきものがあった。

 

(著者注)かかる現象は傍観者から見れば霊媒自身が二つの異なる音声をもって自問自答しているように見えるのである。

 

彼女はヴェッテリニに直接むかってー最初わたしはあなたを非常にこわい方だと思っていましたわ。だけど今日わたしはあなたの笑い顔を二度見ましたわ、それで今はあなたがよい方だとわかりました時々彼女はにわかに後へすさって「まあ、怒ってはいけませんわ。わたしの態度があまりしつこくってもそれはわたしの罪じゃありません。コルニリエに話して…」彼女は如才なく自身の知りたいと思うことに突進していった。

 

スピリットが自分でととのえる衣類やその説明である。

 

あなたは今すぐにあなたのじいさんにお会いになることができますよーとヴェッテリニがいったときこの問題がはじまったのであるー本当ですか。あれが本当にわたしのじいさんでしょうか。だってちがいます。じいさんがあんな大きな帽子をもっているはずはありません。買う所がないじゃありませんか。あの人は死んでしまっているのです。死んでいる人に帽子が買えるはずはありません!

 

スピリットが霊界にいるときの正規の状態は燦(さん)として輝く中心ーこれは心霊の中核なのであるーを備えた輝く光体である。

 

しかし彼らが現実の世の人々に姿を現わそうとする時には、それが自己であることを認められんがために、彼らが地上にいたときの物質的外貌を装うのである。それで彼らは地上で常に着ていた衣装と付属品とをつけて姿をあらわすことができるのである。衣装および付属品はスピリットの思念および意志によって創造せられた実質なき影像であるにすぎないのである。それで現世の人々の脳髄に印象をあたえるのは、この単なる主観的影像にすぎない。これは第一の場合であるが、また他の場合もあるのである。

 

自己の姿をあらわそうと欲するスピリットは、霊媒の肉体から顕そうとする形象に必要なる要素をひきだすものであるが、それと全然同じように、もしスピリットが織物や、衣装や、その付属品を身にまとって顕れようと欲する時には、彼はすぐその周囲に実際存在する類似の織物や、衣装や付属品を必要とするのである。これらの付近に存在する物体から、スピリットは自分があらわそうと欲する衣装をつくるべき要素を抽出することができるのである。しかして、このスピリットが顕現した衣服等の確実性の程度は、その現存する物体から借用したり実質の量に比例するのである。

 

このことは完(まった)く明瞭で、論理的であり、おそらくこの方面の進んだ研究に一致しているのである。が、レイヌのごとき、少女がかくのごとき精確さと権威とをもって、これを説明したところに、その叙述はことさらに印象が深いのである…。

 

***

 

コルニリエ氏がどんなに用心深い態度で、この実験会にのぞんでいたかということは、これまでの氏の手記で明らかになったであろうまたレイヌの心霊現象がどんな性質のものであるかということもほぼ明瞭になってきたであろう。しかし心霊問題になんらの素養もないレイヌがこの方面の最も進んだ研究と一致しうることをいいえたからといって、まだまだ感心してはならないのである。コルニリエ氏が心霊問題研究家である限り、かかる知識はコルニリエ氏の潜在意識に横たわる。それを催眠状態のレイヌの潜在意識が読心術的に感知して、コルニリエ氏の得心の行くように説明したのかもしれないともいいうるのだろう。そしてヴェッテリニと称する別人格の出現も、潜在意識の創造作用がそれを創作したもの

にすぎないともいえるだろう。しかしかく潜在意識の神秘力を拡張してゆくとき、われらは肉体死後の霊魂存続として心霊学者の呈出せるものを、ことごとく潜在意識の神秘作用に帰してしまうこともできるのである。・死後の霊魂残存否定的な意見…等々

 

 

 

生者の潜在意識の能力をかくのごとく広汎な程度に認めて、死者の霊魂の個性的存続を否定しようという人々にとっては、いかなる証拠も、死者の霊魂の個性的存続を証明する材料とはならないのである。外から材料は与えられる。しかしそれは生者の潜在意識作用に帰するのと、亡霊の他界よりの干渉に帰するのとの相異は、解釈者の気質の相異と、内からなる体験の相異によるのである。亡霊の個性的存在をみとむるのは、神の存在をみとむるのとひとしく、結局は内からなる体験によらなくてはならないであろう。

 

 

神の存在には、いわゆる証拠らしい証拠はないのである。ショーペンハウエルは天体の運行の整然たることにより神の存在を証明しようとした神学者に対して、「この世界は存在しうる世界のうちで最悪の世界である。なぜなら、もう少しでもこの世界が余計に悪ければ、天体は互いに衝突してこの世界は存在しえないがゆえに」と有神論の材料となったその同じ材料を無神論の材料としたのである。それは証拠ではなく材料にすぎない。

 

気質が無神論的であるものに、および「内からなる体験」が神をみとめるべく塾してこないものに、有神論者が論戦するのはいかに愚かしきことであろう。それと同じく気質が霊魂論者でないものに、および「内からなる体験」が死後の霊魂の存続をみとめるべく塾してこないものに、霊魂論者が材料を提供して論戦したとてなんになろう。

 

おそらく気質が霊魂論者であるものと、内からなる体験がおのずから熟してきたものにとっては、今まで引用したコルニリエ氏の手記ですらも霊魂の存在を信ずるにはすでに十分であると信ずる。今までは、交霊会とはどんなものか、スピリットの啓示はいかなる状態にて霊媒を通じて来るかを知らない人々への参考として、こまかい叙景的部分までも一語も漏らさずコルニリエ氏の手記を紹介する必要があったのであるが、これからはそうしたシーンの描写の部分を除いて、同氏の手記から「生」と「死」とそして「霊魂進化」の神秘等にふれた部分だけを分類して抄記する。以下はいわばスピリット自身の語れる生物学であり、生死観であり、宗教である。

 

それは最新の学説にある点は一致し、ある点は超越しながらもその説く生物学的説明の真実さにある専門の医者は頭をさげたのである。ある人にとっては、それは潜在意識の録せる驚くべき霊感録とも見られるであろう。それは素養少ない一少女の説明としては、またあまりにも深遠ではないだろうか。では、まず「出生と受胎の神秘」についてヴェッテリニの説明を聴こう。

 

 

つづく

 

 

谷口雅春著 「生命の實相」第九巻より

 

 

 

 

*既に完全円満なる神の子である

 

つづき

 

だから吾らはー度、「吾、今五官の世界を去って実相の世界に入る」念じて、五官の感覚にあらわれて感じられる不完全なる状態から心を一転させて、「吾れ既に完全円満なる実相の世界に住む完全円満なる神の子である」と云う想念に心を集注しなければならないのであります。

 

「これから完全円満にならせて下さい」と想念してはならないのであって、「既に神の子なり、既に円満なり、既に健康なり、既に豊かなり」と念じなければならないのであります。