物質に生命ははない
つづき
一時、ドイツおよびアメリカを風靡(ふうび)した療法にホメオパチーといって人間にある分量飲ませると一種の病的症状をていするような毒薬を、それと同じような症状をていしている患者にむかって「これはそれを治す薬だ」といってごく少量飲ませると、じっさいその症状が消えてしまう治療法があるのだそうであります。
ホメオパチーすなわち「同種療法」という意味で、同じような病気になる薬を使って、かえって病気を治すからそう呼ぶのだそうでありますが、これなども患者の心しだいで、同じ薬が毒にもなれば薬にもなるという実例であります。
じっさい、人間の心ほど不思議な畑はないのであります。
心の畑へ植えこまれた種子(たね)が「真理」(生命の実相)であればその人は健康になりすまし、心の畑へ植えこまれた種子が「迷い」(病的観念)であればただちに病気が芽を出し生長するのであります。
この点において医者というものは患者から信用せらているだけに、患者に対していう言葉には、なかなか注意を払わなければならないのであります。
新薬というものが出現しますと、しばらくの間は非常によく効くのでありますけれども、それが広告(言葉の力)を利用しなくなると、たいていはいつのまにか効かなくなって世人(せじん)から忘れられてしまうのであります。
はじめには効いたけれどもだんだん効かなくなるというのは、なぜでしょうか。
昭和二十七年五月三十日の『日本経済新聞』に結核予防会第一健康相談所副所長の渡辺博博士が「化学療法と気胸療法」と題して、新薬の効果がだんだん減ることについて次のように書いておられます。
「病気は薬で治すという考え方は一応もっともであるが、薬だけで治る病気はそう多くはない。薬にはたくさんの種類がある。しかし病原体に直接はたらいて、病気の原因を除くほど力のあるものは少ない。
たいていの薬は病気の原因に効くのではなく、病気の症候をやわらげるのに役立つくらいのもので、痛みを止め、熱を下げて、苦しみを軽くしているうちに、身体に備わった治癒力で自然に治るのを待つのが常道である。
「土壌菌からえられたペニシリンが抗菌作用を持つことはたしかである。このはたらきが、菌を殺すのか、あるいは菌の発育を阻止するだけなのか、まだ問題は残っている。抗菌作用の本態はまだ全容がつかめない。
「結核菌は肺炎菌と違って、化学薬品に対する抵抗力がはるかに強い。ペニシリンができて、肺炎はむかしほど恐ろしい病気ではなくなったが、ストレプトマイシンではそうはいかない。
「むかしから結核の特効薬なるものはずいぶんたくさん現われ、すべて、いつとはなしに忘れ去られた。極端な場合は副作用さえなければ、実効があろうとなかろうと薬として用いられた。しかし今はむかしと違う。われわれはある薬剤が結核にはたして効くかどうかをたしかめる有力な試験方法を持っている。
「最近のイソニコチン酸ヒドラジッドはこの試験に一応パスした。しかしマイシンが発見され、これか結核は治ると思ったのもつかの間、むしろこの薬で肺外科の領域が拡がったように、こんどの新薬も宣伝されるほどの威力はないとみてよい。結核を化学療法だけで治すことのできる日はまだ遠いものと考えられる。…」
これが結核に対する化学療法、薬剤療法の最新知識というところであります。梅毒に対するサルバルサンが発見されたときには、これさえあれば梅毒は完全治癒すると思われましたが、それがだんだん効かなくなっています。
新聞や医学雑誌に大きく宣伝された当初だけ新薬がきくというのは、その化学的成分に絶対威力があるからではなく、流行神(はやりがみ)さんと同じことで、新薬だというからよく効くにちがいないと医者も患者も信じている、そこへ新聞雑誌がその効果を言葉の力で宣伝する。
ますますその信念が喚起されます。そしてその累加した信念がかさなって効いてくるのであります。ところが発見した当時は、世間が言葉でハヤシたてるが、やがて、それについて何も書かず、宣伝されぬようになると、言葉の力がうすれ、きくという信念がうすれて効かなくなるのであります。
薬にも流行があるように健康法にも流行があります。健康法でも、はじめて発表されて新聞や雑誌の記事や広告に鳴り物いりで大々的に宣伝せられますと、その宣伝の力―つまり言葉の力でその健康法がきいてくるのでありまして、一時はやった何々式健康法というようなものも間もなく世間から忘れられます。
患者に信頼せられない薮医者の場合は患者の方でばかにしてかかっているから、有名な医師が使ってよくきく同じ薬でもきかない。
そこで、この医者はだめだと見かぎる。そして別の有名な医学博士にかかるのであります。ところがやはりその医学博士も診断(みたて)は同じで、同じ薬をくれるのであります。ただちがうのは診察料と薬価とが高いことであります。
値段が高くて有名な医学博士の薬であるから、きっとよく効くに相違ないと患者が信用してかかるから、その信用が病気に効くのです。
信用とは心の問題です。どの病気にはどの薬を使うかぐらいは、医者なら誰でも知っているのですが、名医と薮医との相違は患者に信用せられる手段の上手下手によるのであります。
外科医には手術の上手下手がありますが、施術したあとの傷痕を治すのは自然良能でありますから、そして自然良能は、その人の心の持ち方で変わりますから、「物質」が病気に効くのではなく、「心」が病気に効くのだということがわかるのであります。
谷口雅春著 「生命の實相」物質に生命はない (完)
* ムスビの原理に就いて
この秩序を守ると云うことが大切であります。「先ず神の国と神の義しきを求めよ」とイエスは教えてゐます。「神の義」と云うのは、「実相世界に於ける秩序」という意味であります。実相世界の秩序は、男性原理は高く聳えて「凸」であり、女性原理は低く「凹」であります。この両原理が、どちらにも偏らない「中」の神様から、陽と陰とに分かれて出たのが高御産巣日神(たかみむすびのかみ)と神産巣日神(かみむすびのかみ)であり、此の両原理が再び結合するのがムスビであります。「ムスビ」といふ事が日本では非常に尊重せられたのであります。
和解と云うことであり、愛と云うことであり、自他一體の再認識であります。日本では「愛」といふ言葉は久しく使わなかったので「ムスビ」と言ったものであります。「愛」といふ言葉よりももっと深い意味を持ってゐるのであります。ムスビといふのはどういふ意味かと言いますと、陰と陽と、左と右と、羽織の紐でもかう結ぶでしせう。そして右と左とが一つに結ばれて、美しき形のものが生まれて来る。だから「ムスビ」と云う語の中には「享楽的な愛」ではなくて、「生みだす愛」の意味が含まれてゐるのです。
皆さんがご飯を炊いてそれを「にぎり飯」にする。左の手と右のにとで、ギュツとかうにぎりしめると、ニギリメシが出来る。あれを「オムスビ」といひますね。オムスビー新しき形と美なる味が生まれて出たのです。ムスビとは単なる「愛」ではなくて産み出す働きをしてゐるのであります。「日本書紀」ではムスビを「産巣日」とかう書かないで、一産霊」と書いてある。産み出す「霊」ー即ち「創造の原理」であります。「ムス」っていふのは「生す」であります。
「君が代」の歌にも「苔のむすまで」とありますが、ムスビと云うのは「産む」働きなのであります。陰と陽とがむすび合うことによって一切のものが生まれてる。「赤飯をむす」といふ。皆さんがご飯を炊きまして、そして沸騰して噴き出るやうになると、火を小さくして暫く蒸して置くでせう。あの「ムス」であります。すると「火」の温りと「水」の潤ひとが、じつと一つにムスばれて来て、よい味が出て来るのです。火の方は陽で、水の方は陰である。そして、陽と陰とが仲良くむすばれると、一家整い、一国が正しくなり世界の平和といふものも其處から生まれてくるのであります。これが「神の国の正しき秩序」であります。
谷口雅春著より