因果の循環を断ち切るには

 

 

○我を滅して日々愛行せよ

 

 

悪業の循環をたち切る方法は、一跳(いつちょう)、躍入(やくにゅう)して佛と一體となるとか、つぐないのための苦行をするとか、いろいろあるのですけれども、

 

 

 

天理教では因縁を切るには「我が身忘れてひのきしん」と言われていますね。ひのきしんというのは、公けのために自己の損得を考えず毎日の勤労を寄進する、奉仕する、と云うことでありますが、

 

 

 

寄進というのは捧げ物をすることで、「愛を与える」「生命を与える」そして公けの爲に盡くすということでありまして、必ずしも天理教へ入って労働奉仕せんならんということはない。

 

 

 

どんな宗教でも、「救われる根本原理」―すなわち、自分を縛っていた悪業の鎖を断ち切って本来の自由自在の實相をあらわす原理は同じことなのであります。

 

 

 

我が身のことをわすれて日毎日毎に愛行をすることであります。我が身を忘れて、すなわち「無我」 になって愛行するのです。

 

 

 

「自分」というものが、がんと掴まれておって、それが原動力となって悪業というものを起こしているんです。

 

 

 

すなわち、好き、嫌い、惜しい、欲しい、口悔(くや)しい、残念、憎い、腹が立つ……まあいろいろありますが、

 

 

 

「我」という仮りの本體があって、それが憎いとか、悲しいとか、嬉しいとか、欲張り根性とかいろいろの心の波をこうおこしているのですから、

 

 

 

この「我」という本體を否定して、「無我」だと悟れたら、業の本體が消えるから、業の循環も消えるのです。

 

 

 

もう業がないんです。それで「我が身忘れて」ということが大切なのであります。

 

 

 

「わしが」「わしが」と云う其の「わし」というものがなくならんといかんのです。

 

 

 

つづく

 

 

 

 

注: 

宇治に別格本山が有りまして、元別荘の跡地らしく、宇治川のほとり、閑静で講話を聞きながら宇治川を眺めることができます。私は坂本龍馬が好きでこの宇治川を龍馬は行き来していたのかなと講話聞きながら眺めていたものです。笑!話ずれましたが、道場を作る為に最初は練成費を払い、講話もありますが、山を崩し谷を埋め、平地を作る為モッコ(重たい泥を丸太で2人で担ぐ)。私も担いだことありますが、もうほとんど完成していましたが、そういう練成が体験が良く出るようです。これは私の個人的見解ですが、お金払って、「ありがとうございます」言いながら、他人(ひとの為)に愛行するわけです。足が悪い人、病気の人達分け隔てなく一緒にモッコ担ぐわけです。もちろん強制ではありません。サボろうと思えば部屋で寝てればいいのです。それが不思議病気を治したい、問題を解決したいと思って来てるからかほとんど参加されますね。はじめはおっかなびっくり担いでいますが、いつの間にか病気を忘れ夢中になって担いでいるためか、我を忘れる?なくす?のか献労(けんろう)が終わると皆んな活き活きして泥だらけの手を洗いながら明るく笑って譲りあい、他人の為、他人の為と皆んなが和気あいあいと親しくなり、そのうち足が治ったとか、トイレに行ったら真黒いコールタルみたいなのが出て癌が治ったとか、色々体験が出てきます。もちろん、皆んなその前に私がブログに書いてある様な講話を受けて、それから献労していますので、これで良くなると思っていますので、帰りは杖を置いて帰る人が多いようです。笑、夢中になってモッコ担いでいるうち我がなくなるのでしょうね。今はどこも整地されそのような献労できるとこはないですね!唯一長崎の総本山は敷地が広いからまだ献労ができますが、それでももうモッコ担ぎはないのでは、笑!