◯ 天皇中心理念の顕現としての日本国家

 

 

 

外国の国家のうちには、人民が集まって協議して自已防衛のための団体をつくり、その人民群の福利のための信託組合のような形で国家が形成されたのがずいぶんあるようであります。

 

 

 

しかしそのような国家形成の原理を日本民族国家の形成にまで当てはめて考えることは間違いなのであります。この間違いの原理を、国家形成の「普遍の原理」だなどと称して日本に押しつけたのが現行の占領憲法であります。

 

 

 

日本国家の形成は天照大御神(あまてらすおおみかみ)の天孫降臨の神勅(みことのり)にある如く、天照大御神がその大御心(おおみごころ)の中に「豊葦原(とよあしはら)の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂国(みずほのくに)は世々(よよ)わが子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり」という日本国家形成の個性ある根本原型が設計せられ、その精神的原型(すなわち理念)が天降って、その理念の具象化として神武天皇の建国となり、

 

 

 

爾来、二干六百三十年にわたって、日本にのみ存在するこの個性ある天皇中心国家が連綿として継続して来たことは、それが人類普遍の個性なき国家形成の原理に従って機械的に形成された国家でないからこそであり、

 

 

 

それが天授の国家理念の具体化であればこそ、このように天皇中心制度が二千六百三十年にもわたって継続し得たのであります。

 

 

 

これは他国に比類なきことであります。

                                                                                                               

 

 

 

 

◯「国」は先ず「理念の世界」にある

 

 

 

「古事記」は、いろいろの貼から見て、特にその神代篇である上巻は神話であり、それは古代の日本民族が霊感によって「宇宙の真理」を直感して得たところのものを、文字のない時代であるため書きのこすことが不便であるので、物語形式で言い傳(つた)えたところのもので、深い真理を、表面の物語の奥に蔵していると見られるのであります。

 

 

 

「古事記」が霊感の書であることは、人類が地球を静止せる平面であると思っていた時代に、自轉島、(おのころじま)、即ち自轉する宇宙の一個の島として記載している貼によっても明らかなのであります。

 

 

 

さて、その「古事記」の冒頭には、「天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、高天原(たかあまはら)に成りませる神の名(みな)は、天之御中主神…」

とありまして、この神は、独神(ひとりがみ)即ち、絶對唯一(ぜったいゆいいつ)の神、であって、形なき神、即ち「身(みみ)を隠したまいき」とあるのであります。

 

 

 

すなわち宇宙の初発(はじめ)ー根元(こんけん)ーなるものは、形なき理念であり、霊的実在であり、「天(あま)」即ち天球(あま)(大宇宙)の中心に帰一する理念であるということを、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)という神名(しんめい)に表現されているのであります。

 

 

 

宇宙の本源神には名前がないのであります。

 

 

 

「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」というふうに假に神名として表現されておりますけれども、これは固有名詞ではないのでありまして、その御本質をコトバで表現したものに過ぎないのであります。

 

 

 

「古事記」には天若日子命(あめのわかひこのみこと)とか、天菩比神(あめのほひのかみ)とか、天狭霧神(あめのさぎりかみ)とか「天(あめの)」という字のついた神様の名前が澤山(たくさん)ありますが、固有名詞の場合には「天之(あめの)」というふうには「之(の)」の字をつけていないのであります。

 

 

 

ただ固有名詞らしいものに、「天之常立神(あめのとこたちのかみ)」「天之甕主神(あめのみかぬしのかみ)」というのに「之」の字がついているだけであります。

 

 

 

しかし天之常立神は「天球」即ち宇宙を常立(とこた)たるのは、「之」は矢張り本来説明の言葉でありまして、「地上の」ではない、「天界(てんかい)の甕(みか)」という意味であります。

 

 

 

天之眞名井(あめのまない)(天界の淡水湖)天之麻迦古弓(あめのまかこゆみ)(天界の麻迦古弓)天之波波矢(あめのはばや)(天界の波波矢)天之甕(あめのみか)(天界の酒造瓶)(てんかいのしゅぞうかめ)というふうに、「之」がついている名詞をならべてみると、皆、普通名詞で本来の固有名詞ではなく、「天界の」ということを説明しているのであって、本来の固有名詞そのものではないことがわかるのでありまして、「天之甕主神」(あめのみかぬしのかみ)というのは「天界の酒造瓶を司る神」という説明の語であるから「之」という説明の語をつけたまま神名に轉じているのであります。

 

 

 

さて、宇宙の初発(はじめ)は、霊的実在であって、肉眼にはみえない「身を隠したまいき」でありますが、その根本なる理念は、御中に主なるものがあるという「中心帰一原理」であります。

 

 

 

そして、その身を隠したまうたー即ち肉眼には見えない霊的実在の世界に「国の原型」があるのであります。

 

 

 

即ち、「古事記」は、天地(あめつち)の初発(はじめ)の、まだ不可視の世界に於いて、既に「国」なる語(ことば)を使っているのでありまして「国」の理念が先にあって、それがだんだん具体化し展開することを「萌え騰がる」という風に形容しているのであります。

 

 

 

ここに日本民族の自覚に於いては、「国」なるものは、本来、不可視の(身を隠したまえる)霊的世界にあり、それが徐々に現象界に展開して来たのだとみていることを注目すべきでありまして、外国の国のように、現象界の人間が相談して都合のよいように建てたものではない。

 

 

 

実相の霊的世界から現象界に、生成(せいせい)の秩序を通して、顕現して来たのであって、建国の根が実相の世界から生えているのでありますから、根本的に根が深い。

 

 

 

だから磐石の上に立っているのであって、変化無常の現象界の砂上に立っている楼閣のような根の浅いものでないのであります。

 

 

 

存在の根の浅い外国の国家は始終元首が交代し、国そのものが中断して、別国家の出現となっているのでありますが、実相の霊的世界に於ける理念に存在の根を生やしている日本国は万世一系の中心を永遠に保有し、どんなに幕府の如き、執政府が変わっても、「国」そのものは決して滅びたり交代することがないのであります。

 

 

つづく

 

 

* 天皇や皇族の名前には、姓がない!

 

いまの天皇陛下の名前は「明仁(あきひと)」で、皇后陛下は「美智子」で、お二人とも姓がありません。天皇陛下には「継宮(つぐのみや)」という称号がありますが、これは幼少のときの天皇家の「称号」だから、姓ではありません。皇后陛下も嫁いでくる前は「正田美智子」でしたが、結婚してからは、下の名前だけになりました。

皇太子の正式名も「浩宮(ひろのみや)徳仁(なるひと)親王」で、皇太子妃の名前は「雅子」です。

 

 

* 写真に天皇陛下と美智子妃殿下が一緒に並んでおられる時は正面から見て天皇陛下が左、美智子妃殿下が右です。私達が夫婦で並んで撮るときは正面から見て右が男性で左が女性です。それは天皇陛下が中心でおられるから、神棚も中心が①天照大御神、正面から右が②左が③番目になります。私達夫婦の時は真ん中に見えないが神様で①番目、正面右が男性が②番目の位置、正面左が女性で③番目の位置です。秩序です。お雛様もそうなっていると思います?