第一信  陳き観より新しき観へ

 

 

つづき

 

 

 

あなたが神を百パーセント信じていられないのでしたら、百パーセントまで完全な状態があなたの周囲に展開していないのは当然でございます。

 

 

 

もしあなたが百パーセントまであなたの××さんを、良人を、妻を、子をその他のすべての人々を信じていらっしやらないならば、あなたの××さんに、良人に、妻に、子に、百パーセントまで完全な相(すがた)があらわれていないのは当然です。

 

 

 

観らるるところの世界は、観るところの心の通りの世界なのです。

 

 

 

所観(しょかん)の世界は能観(のうかん)の世界なのです。それを先ず知らなければなりません。

 

 

 

神は既にあなたのお子さんを、良人を、妻を、完全にお創造(つく)りになりました。

 

 

 

かく観えないのは、あなたがかく観ないからでございます。

 

 

 

神を「祈り」と云うあなたの唇の作業で、脳髄細胞を振動させると云う作業で、動かされるところの自働機械だとお考えになるのはあなたの不遜と云うものです。

 

 

 

神はあなたの言葉の祈り(唇の振動作業)によっても動かされはし給わぬでしようし、あなたの心の祈り(脳髓の振動作業)によっても動かされはし給わぬでしよう。

 

 

 

では「祈り」は不必要なものでしようか。人は祈らなくとも好いものなのでしょうか。

 

 

 

いいえ、人は祈らなければなりません。

 

 

 

それは跪(ひざま)ずきにより、懇願により、哀訴(あいそ)により、泣き着きにより神の心を動かそうとするためではないのでございます。

 

 

 

それは自分の心を存在の實相(ほんとうのすがた)にまで調和せんがためなのです。

 

 

 

それは懇願でもなければ、哀訴でもない「況(いわ)んや泣き着きではないのです。神は愛であり給いますから、神の愛による創造の御業(みわざ)(實在)の實相(ほんとうのすがた)を如実に知るためには、吾々の心が愛そのものにならなければなりません。

 

 

 

光のみ光を見、愛のみ愛を見るのです。

 

 

 

愛のー面は神の全能と完全さとを信ずる「信」であり、「全托」であり、全てを信じて委(まか)せ切ることです。

 

 

 

愛の他の半面は神の愛に対する「感謝」であります。

 

 

 

「信」と「感謝」があなたの心の中に盛り上がるほどにー杯になったとき、あなたは存在の實相が如何に完全であるかがお判りになりましよう。

 

 

 

もしあなたの眼の前に展開する相(すがた)があなたの××さんの相が、良人の相が、子の相が、不完全であるならば、あなたは神の心を動かすためにではなく、自分の心のリズムを、神の創造そのままを感じ得るリズムにまで調律するために祈らねばなりません。

 

 

 

ですから、その時の祈りの言葉は今までとは全く異ったものになるでしよう。

 

 

 

神よ、今迄私が自分の心の眼を開かなかったことを赦したまえ。

 

 

 

あなたのお創造りになったこの世界に不完全な状態があったと云うことは、私の間違いでございました。

 

 

 

今こそ私は自分の心の眼をひらいてあなたのお創造りになった世界の完全な相を見るのでございます。

 

 

 

私の子供は(この処に、場合に応じて「良人」と入れ、「妻」と入れ、その他の人たちと入れかえても好いのです)本当に完全なのでございました。(情感を籠めて)本当に私の子供は完全なのでございます。健康なのでございます。性質善良なのでございます。(更に深く深く情感を籠めて)有難うございます。有難うございます。

 

 

 

もし、この存在の善なる實相を直視する祈りが徹底し、既に与えられている完全なる神の恵みに対する感謝が徹底いたしますならば、あなたのお子さんの状態は(或は良人又は妻又はその祈りの目指す人の状態は)掌(てのひら)を翻すように変化するでしよう。

 

 

 

何故なら、この祈りによってあなたの「心」が動かされ、あなたの「心」が存在の實相を感じ得るだけの内的リズムを起すようになられるからでございます。では、今日の通信はこれで。また次に書かせて頂きましょう。既に完全なる私の友よ。

 

 

 

幸福の哲学 (陳き観より新しき観へ)