⑤  幸福の哲学

 

 

第一信  陳き観より新しき観へ

 

 

つづき

 

 

 

わたくしは前便に於いて、「観る」と云うことに就(つい)て申し上げました。「観る」のは「私」の立場を」悉(ことごと)く放(な)げ棄て去って、神的な立場に立って「観る」ことが必要であると申しました。

 

 

 

「観る」と云うことは「祈り」の端的な行であって、その端的な直視の行が伴(ともな)わなければ、「観る」心の態度が間違っていたならば、どんなに祈っても効果(かい)なきものであると云うことを申し上げました。

 

 

 

吾々が祈るのは、観るところのこの世界の不完全な相をその儘(まま)ありとして観ながら、言い換えれば、神の創造り給いしこの世界に不完全なる人間が、不完全なる出来事が實在すると信じながら、神に対してその不完全さを除去って(とりさ)ってくれと祈るのであってはならないのでございます。

 

 

 

すでに神の創造り給える世界に、そのような不完全さが實在(ほんとにあ)るとお認めなさいます以上、それはかかる世界を創造(つく)りたる神に対する不信の表白の他の何物でもございますまい。

 

 

 

かくの如くその不信を表白している神に対して、更に何事かの修正をお祈りになると云うことは、信頼せざる相手に信頼出来るようにしてくれとお願いすることにほかならないのであって、そう云う矛盾した信頼が、そう云う不純なる祈りが「絶対信」の表現であるべき筈の神への祈りと決して一致すべきものでないことは言うまでもないのでございます。

 

 

 

あなたはほんとうに神を信じなさいますか、信じなさいませんか、その二つを最初にハツキリして置かなければならないのです。

 

 

 

あなたが神を信じなさいますならば最高の「信」に於いてそれを信じなさいませ。

 

 

 

あなたが神を最高の「信」に於いてお信じになるのでございましたならば、神が完全に創造し給うたー切のものの完全さを、そのまま素直にお信じなさいませ。

 

 

 

※神其の造りたる諸(すべて)の物を視たまいけるに甚(はなは)だ善かりき。

(『創世記』第一章第三一節)

 

 

 

神がかく、造りたる諸(すべて)の物を「甚だ善し」と視給うたにも拘らず、あなたは神のこの観方が間違っているとでも断定し得るところの神に優れる智慧あるかの如くこの世界を不完全であると言おうとせられます。

 

 

 

そうしてこの世界に不完全なる人間ありと観ようとせられます。

 

 

 

あなたはまことにも創世記第三章に於いて、蛇に教えられて知恵の樹の果を食したるアダムが、神が創造りたまうたこの世界に何か羞(は)ずべきものがあると観て無花果(いちじく)の葉をもって綴(つづ)れる衣(ころも)にて、それを蔽(おお)い隠そうとした行為にも似て、神が「甚だ善し」と宣(のたま)うた世界を、「悪しきもの、羞ずべきもの」と批判し、神が「甚だ善し」と宣うたところの神の理念(すがた)に創られたる人間を「悪しきもの、羞ずべきもの」と批判しようとしていられるのでございます。

 

 

 

そのときエホバ神は「エデンの楽園より人間を追い出だし」給うたのであります。(創世記第三章)

 

 

 

あなたも神の創造(つく)りたまうて「甚だ善し」と宣うたこの世界を、「甚だ善からず」と批評し、そこに悪しきものもあり、病気も、不幸も、劣等児も、虚弱児も、不良も、成績香(かん)ばしからざる子供も、自分の思いのままにならないような○○さんもあると観られるようになったとき、あなたはエデンの楽園から追放せられたのです。

 

 

 

そのとき、あなたにとって楽園は喪失したのでございます。

 

 

 

御覧なさい、そこには病気も、不良も、劣等児も…不完全な人間の存在する世界があらわれたではございませんか。

 

 

 

神は楽園を喪失した人間に対(むか)って巖(おごそ)かにも言いたまうでしよう。

 

 

 

創世記には「汝は労苦(くるしみ)て其より食を得ん。」と書かれております。

 

 

 

これこそは入学試験地獄、就職競争地獄の現出ではございませんか。

 

 

 

ここに「エホバ神」とは三界唯心の法則を人格的にあらわしたものでございます。

 

 

 

神がひとたび「甚だ善し」と宣うたこの世間を、この世界の人間たちを「甚だ善からず」と観る五官知こそは蛇に佯(いつわ)られて、心の中に食したる知恵の樹の果でございます。

 

 

 

 

知恵の樹の果を食したために、三界唯心の法則はあなたをエデンの楽園から追放したのでございますから、すべての幸福が充(み)ち満(み)ちているエデンの楽園を再び奪還するためには、先ず知恵の樹の果なる「五官知」を吐き出すことから始めねばなりません。

 

 

 

あなたの五官で観たる世界は不完全に今見えていましようとも、本当の「信」はその五官があなたに告げるところのー切を信じないで、神の創造の完全であることを信ずることから始まるのです。

 

 

 

病める、貧しき、成績すぐれざるいと羞ずかしき見苦しきものとして、あなたの○○さんが、良人が、妻が、子供が観えましようとも、かく観るのは五官知であって、人間の本当の相(すがた)ではないことを信ずるのです。

 

 

 

あなたは神を信ずる以上は神の力がどれほど偉大なものであるか、神の智慧がどんなに行き届いたものであるか、神の愛がどんなに大きく吾々を生かそう生かそうとしているかを信じなければなりません。

 

 

 

神を大声で呼ばわって祈らなければ、此方(こちら)の思うことが神に通じないように思うのは神の全能を軽蔑(けいべつ)するものでございます。

 

 

 

神の全能を軽蔑する位ならば初めから神に祈るなどと云うことをなさるに及ばないでございましよう。

 

 

 

神に対しては「全て」か「無」かです。

 

 

 

「全て」を神に托(まか)し得ない位ならば神を呼ばない方が好いでしよう。

 

 

 

半ば神を疑いながら、神の創造に間違いがあるかも知れぬと思いながら、神の創造に不完全があると思いながら、神の創造にケチを附けながら、かくの如く神を侮蔑しながら、神の創造し給うた世界の、神の創造したまうた人間の、「ここが不完全であるから直せ」と言うのは、あなたは果たして神よりも偉大なるものでしょうか。

 

 

 

神よりも偉大なるものならば、何のためにあなたは神に祈るのでしょうか。

 

 

 

祈りを以って、神が、吾々に与えるべくして忘れているところの恩恵を思い出させるための神に対する懇願(こんがん)であるとお考えになっては間違いでございます。

 

 

 

あなたは神の全智であることを先ずお認めにならなければなりません。

 

 

 

神は全智であり給うがゆえに、神はあなたにとって無くてはならぬ物を既に知りたまうのです。

 

 

 

神は既に知り、既に与え給うているのでございます。

 

 

 

既にあなたの○○さんは神さながらに立派であり、既にあなたの良人又は妻は神さながらに立派であり、既にあなたの子供は神さながらに健康であり、成績優良であり、それ以下の何ものもあり得ないのでございます。

 

 

 

それ以下の創造がこの世にありとするのは、あなたが神を信じないところの不信だと言わなければなりません。

 

 

 

不信には不信の結果を見るほかはございません。若(も)しあなたの家庭に何か不完全な相があらわれているようでしたら、それはあなた自身の不信のすがたが現れているに過ぎません。

 

 

 

ですから、あなたが、現在若し存在する何かの不完全な状態からお逃れになろうとするのでしたら、神に懇願するよりもまず自分自身が、どの位の程度に神を信じているのかを省(かえり)みなければなりません。

 

 

 

つづく

 

 

以前、飛田給道場の元総務で医学博士の徳久先生がアフリカから来たブラックソンと飛行機に乗っている時「徳久!」「俺は谷口雅春先生が今飛行機から飛び降りろと言われたら俺はできるが、お前できるか!」と言われたと、凄いね!と話しておられました。「信」ですね!

 

注:ブラックソンはアフリカで夢に雅春先生が現れて指導されていて、ある時、偶々雅春先生の写真が載っている雑誌を見てこの人だ、この人が私の夢の中に現れて指導してくれた人だと知り、雅春先生のところに手紙が来て日本に来日、その後アフリカで布教された方だという事です。