幸福の哲学④

 

 

第一信      陳(ふる)き観(かん)より新しき観へ

 

 

つづき

 

 

 

わたくしは、まだハツキリ葉の形にひらいていない早春の樹木の新芽を見るとよろこびをを感じずにはいられません。

 

 

 

その枝振りとか形とかは問題ではありません。その逞(たく)ましい、ふっくらした、ふくらんだ米粒のようなその中にあらわれているいのちに、わたくしは満点を附けたいように思うのです。

 

 

 

わたくしはそのどんな形にもまだ開いていないものの中に生命を感じて、神的な立場から拝みたくなるのです。

 

 

 

わたくしは神的な立場と申しました。

 

 

 

そうです、神的な偏寄(かたより)のない、そのままものそのもの、いのちそのものと一つに成る立場なき立場から見たとき、ただのー点でしかない樹木の新芽ですら、ありがたくて拝まれるか知れないのです。

 

 

 

況(いわ)んや、人間は樹木の新芽にまさるものではありませんか。況んや、人間はー点にまさるものではありませんか。

 

 

 

あなたは、そう云う神的な立場からいのちを観て拝む態度で、これ迄あなたの○○さんを観て拝んだことはないでしよう。あなたの良人を観て拝んだことはないでしよう。あなたの妻を観て拝んだことはないでしよう。すべてのものを観て拝んだことはないでしよう。

 

 

 

それならば、そのあらわれている相(すがた)が不完全だと云うことは当り前なのです。視えているところの相は、吾々が心に拝み得ただけしか顕れて来ないのですから。

 

 

 

「観る」と云うことを吾々は今迄あまりに軽々しく取扱っていたように思います。

 

 

 

「観る」と云うことと「信」と云うこととはーつのことを別の言葉で言ったのに過ぎません。

 

 

 

言(コトバ)は「道」と訳しても、「祈り」と訳しても「行(ぎょう)」と訳しても「體験」と訳しても「観(かん)」と訳しても同じことなのです。

 

 

 

観る通りにー切のものは行ぜられ、観る通りにー切のものは體験せられ、観る通りにー切のものは現れ、観る通りにー切のものは信ぜられるのでございます。

 

 

 

人間を悪人と「観て」いながら、神を完全だと「信じて」いるなどと云うことはあり得ないことなのです。

 

 

 

「観」と「信」と「祈り」と「行」と「體験」とはー致すべきものなのです。あなたがもしあなたの○○さんの、良人の、妻の、子供の、そしてー切のものの善さを観ないでいるならば、これらー切のものを創造(つく)り給える神を信じているのだと言うことは出来ません。

 

 

 

一切のものの本質は「神」であり、その「神」の相(すがた)は「観」によって顕れるのでございます。

 

 

 

「観」は「祈り」のように語(ことば)によって唇の動作では表現されませんけれども、それは語(ことば)の如く発声器官を通しての間接な表現ではなしに、直視したところのコトバなのでございます。

 

 

 

「この人は善人である。」「この子は神の子である。」「わが良人は悪になりようがない。」―これ等はいずれも観たそのままであって、従って語(ことば)には表現されないけれども、直視の内在語として、それは有力な「祈り」なのでございます。

 

 

 

「この人は善人でない」と見ながら、「この人が善人になりますように」と祈るのは、「祈り」自體の自家背反であって、一方に「善人でない」と祈りつつ、一方に「善人である」と析っているのですから、その祈りは打ち消されて何ら實現力なきものとなるのでございます。

 

 

 

岩手県選出の政友会代議士に志○○利さんと云う方がございます。この方は医師も見放すほどの瀕死の腎臓病を患っていられたのですが、『生命の實相』の悟りによって癒された人であります。

 

 

 

志賀さんはそれ以来、實相直視の心境に到達せられました。暇(ひま)があったり、余裕があったら「生命の實相」の本を沢山買い求めて置かれまして人に与えて人をお救いになるのでございます。この人の導きによって癒やされた人々も随分沢山ございます。

 

 

 

或るとき知人の一人の坊ちゃんが百日咳にお罹(かか)りになって医師の診療を受けても中々治らないのでございます。その時志賀さんがこの坊ちやんのお母さんに「生命の實相」をおあげになり、神想観を實修して、子供の「神なる、既に健全なる實相」を祈り出すようにお教えになったのであります。

 

 

 

その母親は教えられるままに、神想観を修せられまして子供の健全なる實相を祈り出そうとつとめられましたがなかなか治りません。

 

 

 

数日して志賀さんが、この母親にお逢いになり「あなたは、自分の子供が百日せねば癒(なお)らぬ重病の病気に罹っているので何とかしてそれが癒りますように、と思って神想観をしていられるのでしよう」と問われました。その母親は「全くその通りでございます」と答えました。

 

 

 

志賀さんは百日かからねば治らない重病だと信じて治して下さいと祈っているから治らないのですよ。

 

 

 

百日かからねば治らないなどと云うような病気はないのです。

 

 

 

病気のように顕れて見えるのは、あれは嘘で間違いなのですと信じて、その間違いでない本物の健康な相が顕れるように祈りなさい」とお教えになりました。

 

 

 

その時その母親は成る程と気が附かれまして、子供を「観る」心の態度をお変えになりましたら、間もなくその坊ちやんの百日咳は癒ってしまったのでございました。

 

 

 

これは百日咳の話でありますけれども、必ずしも百日咳のみには限りません。相手にあらわれているあらゆる病気の問題、性格の欠陥の間題なども、この「如何に自分は彼を観るか」の根本問題を解決することによってのみ解決するのでございます。

 

 

 

あらためてお伺い申しますが、あなたは、あなたの○○さんを、良人を、妻を、子供、を、更にあなたの運命を、如何に観ておられますか。そのあなたの観ていられる通りに、あなたの○○さんも、良人も、妻も、子供も、運命も、あなたに見える限りに於いて現れているのでございます。

 

 

 

つづく

 

 

*  現象世界は「コップに水を入れ割り箸を入れて横から見ると曲って見えるように」病気や色々な問題があるように見えますが、コップの中の割り箸は曲っていないように、本当は 病気は無く、色々な問題もないんですね。ズーと昔、生命の實相にふれた頃ある試験を受けようと、試しに「○○試験合格しましたありがとうございます」と祈って放っていたが勉強しないで合格するかなと思い、「○○試験合格の為の受験勉強ができました。ありがとうございます」と祈りを変えましたら、夜中に突然目が覚めそれから猛勉強です。それで合格して支店長より表彰され、10万円貰ったことがあります。笑、