第一信      陳(ふる)き観(かん)より新しき観へ

 

 

つづき

 

 

あなたの××さん(あなたの愛児にでも、良人にでも妻にでも、父母にでも当てはめて読んで下さい)の性格をよくし、

 

 

 

あなたの××さんの健康をよくし、すべての成績を優秀ならしめるところの、唯ーのお勧めして好い真實の方法は「信」のほかに何物もないことを申し上げて置きたいと存じます。

 

 

 

「信」は「人の言(コトバ)」と書き、言はヨハネ伝の第一章にも書いてございますとおり、すべてのものの本質でございます。

 

 

 

それは人間の本質であるばかりでなく「神」の本質であります。従って「信」とは人間の本質への全き信頼であると同時に、「神」への全き信頼であります。

 

 

 

人間を哺乳動物なる獸人(アニマル・マン)として見ず、神人として見るところの全き信頼であります。

 

 

 

太初(はじめ)に言(ことば)あり、言は神と偕(とも)にあり、言は神なりき。この言は太初に神とともに在り、萬(よろず)の物これに由(よ)りて成り、成りたる物にーつとして之(これ)によらで成りたるはなし。之に生命(いのち)あり、この生命は人の光なりき。(「ヨハネ伝」第一章)

 

 

 

あなたがあなたの××さんを良くするためには、人間を本来善き者として見ざるところの、今迄のあなたのその根本観念を捨て去らなければなりません。

 

 

 

神が生命であり、その生命が人間の光として吾々の内部に宿っているのでございます。

 

 

 

「言は肉體となりて吾等のうちに宿り給えり」とヨハネは云っておりますが、言(コトバ)なる「神性」は「吾等」のうちに、貴方自身のうちにも、貴方の××さんのうちにも宿っていることを知らねばなりません。

 

 

 

あなたは、あなたの××さんが不良であると信じていられるかも知れません。また、あなたの××さんが虚弱であると信じていられるかも知れません。また、あなたの××さんが頭脳(あたま)が悪くて成績がよくなれないのだと信じていられるかも知れません。

 

 

 

しかし、あなたが仮令(たとえ)どのようにあなたの××さんを信じていられましようとも、私はあなたの××さんは善良であり、健康であり、成績優良であると断言するものであります。

 

 

 

あなたは、現にあなたの××さんがこんなにも不良であり、病弱であり、成績不良であるのに、それをしも、善良であり、健康であり、成績優良であると断言しようとする私を如何にも不思議にお考えになっていることだろうと思います。

 

 

 

私に言わせれば、あなたの××さんが不健康なのは、あなたが自分の××を不健康だと信じ、それを心に思い、言葉にあらわし、態度表情に示して来られたからなのです。

 

 

 

性質の不良とか、成績の不良とか云う問題も同じことであります。あなたの××さんに顕(あらわ)れているー切の状態はあなたの心の状態の反影(かげ)であるほかの何物でもないのでございます。

 

 

 

あなたは、常にあなたの角度からのみ、あなたの××さんを見ようとしておられます。またあなたの尺度(ものさし)を以ってのみ××さんを測ろうとしておられます。それではあなたは影を見、形を見て本質を見ないものなのです。

 

 

 

あなたは学校に入学する立場からのみ、あなたの××さんを見ようとしておられます。

 

 

 

これがあなたのものを見る角度なのですその角度を、その立場を、あなたは捨てなければならないのです。

 

 

 

それは無我の立場ではありません。無我の立場にならない限り××さんの本当の価値はわかるものではありません。

 

 

 

××さんに限りません。すべての人間の値打は、こちらが無我になった時にのみ、はっきり間違いなく判るのです。

 

 

 

どの立場に立って見ても、一方の角度から見ている限り、それはその角度から見たときにはそう見えると云うだけであって、人間の本当の値打ちはわかるものではありません。

 

 

 

それではすべての立場から写して見て、それを寄せ集めたら、その人間の本当の値打が判るかと言いますと、それは立體写真の胸像と同じことで、それでは決して人間の本物は出て来ません。

 

 

 

一切の立場を総合してさえも人間の本当の値打は判らないのです。本当に人間の値打がわかるのは一切の立場を捨てた時にのみです。

 

 

 

あなたは今迄観ておられたその角度を捨てて、××さんのいのちそのものを見なければなりません。

 

 

 

たとえばここにー枝の桜の花が咲いているとします。それを手折(たお)って生花(いけばな)にする立場から言うならば、その枝振りの形の美(よ)さなどと云うことが、その桜の花の値打を左右するーつの尺度になるでしよう。

 

 

けれどもそれは桜の花そのものの立場から見た価値ではありません。

 

 

 

桜の花は、それを手折って生花にする立場から評価すべきものではありません。

 

 

 

桜の花がー輪、そこに咲き出でていると云うことは、そこにいのちが咲き出でていると云うことです。それは、絶対価値であり、そのままで貴く、そのままで価値があるのでございます。

 

 

 

いのちが咲き出でていると云うこと、そのことが既に絶対価値なのです。それは効用価値の問題ではありません。

 

 

 

 

つづく

 

 

注:出産前診断で異常が見つかった人の90%異常の人が中絶をしているとのことです。戦後優生保護法ができ中絶が簡単に行われるようになりました。マザーテレサが羽田に降り立ったとき、日本の空は中絶児の涙でおおわれていると言われました。今から35年前に「積木くずし」という本がドラマ化され有名になりましたが、これは子供が不良化して手がつけられなくなり一家大騒動の物語です。実在であり当時はそういう家庭がたくさんありました。それは中絶児の想いで、親の都合で勝手に胎児の命をたち、そのまま放ったらかしにしている。そうすると生んだ子供が中学生位になり、これから進学、就職、という人生の大事な時に突然、ひきこもり、髪を染め、不良化、借金等で、親を困らせるようになる。そういう現象が35年前位におこりました。それは胎児が宿るというのは魂が地球学校に入学するような事なのにそれを、親の身勝手で中断したことになる。それが生んだ我が子に一番大切な時期に現れてくる。親は我が子からは逃げられない、戦後は経済問題で中絶が多かったので、不良化した我が子をまともにするのに結局、1人を育てるのにかかる費用位かかった。業の流転である。出産前診断の異常の中絶もこれから二十年前後に起こってくるのではと思う、霊界がある事を、本当の事を知らないから仕方がないが、しかし、外国はキリストなり、イスラムなり神を一応信じているので、中絶する事の罪悪観はあるのではと思う、先日も外国に行くと貴方の宗教は?と必ず聞かれると言っていましたが、日本人はゴニョゴニョ言ってごまかしていると書いてありました。戦前の教科書には日本は天照大御神(神話)から日本の国はできたと書いてあったようである。私は戦後だから写真では見ました。今朝のテレビでチョークの製造(理化学工業?)現場の人の7割が障害者の方である。と言っておりました。彼らでないと出来ないと、それは集中力と持続性だという事です。だから人間には役割はあっても優劣はないと言っておられました。人間は肉体ではなく魂だということです。魂のお勉強の為に地球学校に生まれてきています。どういう肉体をもつかはその人の過去世の業等によると書いてあります。小児麻痺は高級霊が宿っていると書いてあります。ロデオ、馬に乗るのが上手い人ほど暴れ馬に乗るように、不自由な体に宿ておられるようです。だから可哀想だと思わないで欲しいと。それから人間は男、女、男、女とだいたい生まれ変わるようです。女、女、女、男が、はるな愛?男、男、男、女が和田アキコ?それから何回も何回生まれかわるようです。目が見えないピアニスト、辻さんでしたか、前世でもピアニストだったんでしょう、だから目が見えなくても上手なんでしょう。将棋の中学生のプロ、彼も前世で将棋が上手だったのでは、だから天才といわれる人は何回も何回も生まれ変わって練習してきたのだと言われています。