神想観実修上の心得一般
○ 宇宙を浄化するアイウエオの言霊(ことたま)
神呼び歌の気合いの後にアオウエイと唱えてもよい
一體それは、どういう意味であるかといいますと、少しも濁りがなく、ひっかかるところがなく、スラスラ出るのがこのアイウエオの聲であります。これは日本では、母音、といって、すべての聲音(せいおん)の根元になる母なる音であります。このアイウエオの母音(ぼいん)が入って来ないと、すべての音は不完全音になるのであります。
例えば英語でいうならブックという字の綴りの終わりのKは「ク」とハッキリ発音できない不完全音であります。あたかも犬が喉に骨をたてて、クッ、クッ、クッと咽喉にひっかかって嘔吐(へど)をはいているような、不完全音であります。
このKにアイウエオを加えますとKKKKKとハッキリと完全に発音ができるようになって、言葉が浄まってくるわけなのであります。
宇宙のコトバを浄める為には、どうしても、アイウエオというこの五つの母音をもって清めなければならないのでありますから、皆さんも「アー、イー、ウー、エー、オー、アー、イー、ウー、エー、オー、」と、十回でも二十回でも朗々と(とな)えて、その「堅端の音」を耳を澄まして聞いておられると、心が實に澄み切ってくるのであります。
自分が澄み切るだけではないのであります。宇宙のコトバが澄みきって宇宙が平和になるのであります。自分の心が浄まり宇宙の心が浄まります。
これが、伊邪那岐大神が宇宙をコトバに依って、浄められたというのであります。
○ 神想観は無想観ではない
「精神統一をいろいろと修業して見ましたけれどもどうしても無念無想になりません。私にはどうしても精神統一は好い具合には行なわれません」と言う人がなかにはあります。
こういう人は、精神統一というのは、精神が活動しなくなって、何もわからなくなることだと思っていられるようであります。
私はそういう人に、「何も考えなくなり、何も思わなくなり、何も聞こえなくなりたいのだったら、石になるか、死んでしまうか、眠ってしまうかなさい」と申すこと、がよくあります。
本当の精神統一とは茫然となることでも、恍惚となることでも、前後不覚になることでも、睡眠することでも、石になることでもないのであります。
神想観の精神統一法は、何か霊媒を養成する場合のように心を肉体から遊離脱出せしめるというのではなく、心を充実の極にする、わが中に神の霊流れ入り充ちると観じ、その充ち満ちた極、その霊の圧倒的存在で肉体が霊化されてしまって肉体を感じなくなるのであって、肉体から霊魂が脱出して肉体を感じなくなるのではないのです。
そうなると自分という存在が宇宙を貫く宇宙の中心軸ような感じがし、同時に宇宙全体に遍萬する自分を感ずることができます。自分が宇宙に遍萬し同時に宇宙の中心であるのが人間の実相なのです。
○ 神想観によって罪の消える原理ー罪と懺悔
懺悔をするということは、神様の前に罪を放り出すということである。光の前に暗を放り出したことになる。実在の前に非実在を放り出したことになる。
それで罪というものは神様の前へ放り出したら消えてしまう。神様の前へ罪を放り出したら罪が消えるのは、本来罪が非実在だからです。
「観普賢菩薩行法経」に「懺悔せんと欲せば実相を念え、すべての罪は太陽の前の霜のように消えてしまう」と書いてあるのも、実相の光の中へすべての罪の暗を溶かし切ったら、一切の罪は本来無の相をあらわして消えてしまうからです。
「念の具象化」とか因縁因縁と言ってそれに捉われている間は、まだ実相を悟っていないのです。仮存在のウソの存在の罪の尻を追っかけ廻していることになっているのです。
神の前に、実相の前に、罪を放り出したら消えてしまう。因縁も消えてしまう。これが生命の實相の教えている「罪はない」ということ、因縁は超越できるということなのです。何でも実相ばかり念じたら、一切の悪いものは本来ないのだから消えるほかはないのです。
神想観は罪あるままで勘弁する意味では罪を赦すのではありません。
円満無罪の実相の中へ溶け込むことによって罪(悪念の運動慣性)が無くなるのであります。
負債を支払わないで勘弁して貰うのではなく、実相の富があらわれて来るから、負債が自然に支払われて来るのであります。
悪癖のある人の悪癖のあるがままで人々から我慢されるようになるのではなく、悪念の運動慣性が破壊されるからその悪癖が無くなるのであります。
煙草や飲酒や吃語癖などが神想観で自然に治るのはそれであります。
病気の人が病気のままでもその病気を我慢して貰って人から迷惑がられなくなるのではなく、神の子の無病の実相があらわれるから自然に病気そのものが影を消すのであります。その例も無数にあります。
○ 霊動および自動運動について
手掌(てのひら)の中に感電するようなピリピリした妙な感じがしたり、手が霊動したり、身体が震動したりすることがあります。
姿勢を天地の生命磁気の方向に一致さし、人体三カ所の生命磁気の中枢(手掌・眉間・呼吸)を一カ所に集中したため、潜在していた生命磁気が濃厚に発現した証拠です。
この生命磁気を利用して、或る段階の霊魂が憑ってくることがあります。霊動を喜ぶと低級霊がくるおそれがあります。高級霊は姿勢正しく低級な格好の霊動は致しません。
病気の人は病患部を自動的に按擦または軽打することもあります。これは必ずしも低級霊ではなく「病気あり」との観念の自壊過程としての自動運動であります。
自己治療としての運動は多く肉体の故障を自動的に揉むような形で起こったり、脊柱が前屈みになっている人はうしろへグッと反って来たり、右へ彎曲している人は左へばかり身体を屈(ま)げる運動を始めたり、肩胛骨の位置に異状のある人は手を振り子のように振ったり、水車のように回転させたりします。
中には「神想観」実修中内臓に運動を起こしてグゥグゥ胃がなったり、クルクル腸が鳴ったりすることもあります。すべて生きる力が衰えていた箇所に生かす運動が起こるのです。
自然運動の場合は十数分間そのまま自動せしめたのち、意志の力を用いて運動を止め、合掌正座の姿勢にかえりて尚も専念精神を統一し深く神と一体であることを念じていますと、深い無我の「大虚無即大実在」の世界に入ります。
この「大虚無即大実在」の世界に入って、その底から導かれてくる生活こそ「本物の生活」で、日常生活そのままが欲して違わざる生活になるのであります。
「霊覚の霊覚とすべきは霊覚にあらず」で、イザという時には判断が狂ったり、霊告が得られなかったりするような霊覚では何にもなりません。
日常生活そのままが「大虚無即大実在」に根が生えたような、大安心、無恐怖の生活になることが極致であります。
○ 霊動が起こる場合は
霊動に合掌を濡れ手の水を切る形で打振るのは障げの霊が浮き出したのです。霊動を止めて聖経を朗読するがよろしい。
毎日この法を続け聖経の功徳にて障げの霊が帰順して守護神となれば霊動が静かになります。
神想観をして霊動の起こる傾向のある人は、霊動の起ころとする気勢(けはい)を感じるとすぐ瞑目合掌を止めて、聖経「甘露の法雨」を読じゅするようにすれば、心の迷いが消えるとともに霊動はしなくなるのであります。
霊動の起こる人は合掌瞑目しても霊動がなくなるまで神想観をしないがよろしい。霊動をしてなかなか意識を取り戻さない人には、合掌を解かしめ両手でその人の背後から両肩を支え、膝頭でその人の腰椎を強く圧迫するか、または神様にお願いして「甘露の法雨」でその人の頭を抑えてやるとよろしいのです。