① 神想観 (座禅)
はしがき
「真理は汝を自由ならしめん」とキリストは教えたのであるが、真理を自覚し得たものは自由自在を得るのであって、それを仏教では解脱(げだつ)と言う。
真理を自覚して大自在の境地にまで解脱したる者を仏教では覚者(かくしゃ)すなわち仏陀(ぶつだ)と言うのである。
「解脱を以って仏となす」と涅槃経(ねはんぎょう)には録(しる)されている。
キリスト教も仏教も結局は、真理を知ることによって、一切の苦悩その他の繋縛(けいばく)から脱して大自在の境地に衆生をして達せしめんとするのがその教えの最後の目標だと言い得るのである。
人間界の一切の苦悩は、戦争等によって、自己破壊を刻々身辺にちかづけつつあることをも含めて、すべて迷いによって自己の想念行動を自縄自縛(じじょうじばく)しているからである。真理を知ってこの自縄自縛を解き放てば、地上に天国浄土ともいうべき至福の世界が実現することは必至である。
しかし、如何にすれば、人類が自己解放を逐ぐべき真理を自覚し得るであろうか。釈尊は、六波羅蜜(ろくはらみつ)すなわち、布施(ふせ)、持戒(じかい)、忍辱(にんにく)、精進(しょうじん)、禅定(ぜんじょう)、般若(はんにゃ)の六つの倒彼岸(とうひがん)の道を示された。
神想観というのは、私が修業中に神授せられたる般若の知恵を禅定によって到達せる道である。動的修行としては、布施、持戒、忍辱、精進が必要であるが、静的修行としては禅定によって般若の知恵を体得するほかはないのである。
私は神想観のやり方を『生命の實相』「観行篇」に述べておいたのであるが、その後、実修した人々からの色々の質問に応えるため、および、一層深く求める人々のために更に詳しく各方面から色々の雑誌に折りにふれて書いて置いたのであるが、今迄その全部が一冊にまとまっていなかったのである。
ところが偶々(たまたま)、吉田武利君がそれを一冊にまとめたいとの念願を起し、丹念に各方面から資料を蒐集し、さらに、私が道場で修行者に対して神想観の実修を指導する際の口伝的(くでんてき)な口述をテープ・レコーダーの録音から筆録して資料の完璧を期して、ここに完全詳密な神想観の伝授書が完成した訳である。
吉田武利君は永平寺その他の禅刹で座禅の修行をはげんだことのある熱心な求道者であるが、たまたま生命の實相に触れ、神想観を実修するに及んで、心境とみに進み、座禅の極地ここにありとの感をなすに至り、ついに、神想観に関するあらゆる資料を集大成する希望を懐きこの大業を成し遂げられたのである。
私はここに吉田武利君のその異常な努力に感謝すると共に、この書が世に出ることによって、できるだけ多くの人たちが、真理をただ書籍上で知るだけでなく、身をもって実修して、真理を全心身をもって体得し、一切の繋縛を脱して自由自在の境地に達せられんことを希望するのである。
これらはいずれも神授のものであって、私自身も、これによって尚、修行中のものであるが、本書の初版以後、私の修行中に神授せられた数種の神想観を、今回、剞厥(きけつ)を新たにして本書を公表するに方(あた)り補遺(ほい)として巻末に掲げることにした。
昭和四十五年七月一日
著者識す
○ 神想観は日々の精神的糧
神想観は吾々にとって日々の精神的パンであります。吾々の生活の生活には物質的パンも必要ではありますが、精神的パンはなおさら必要であります。
人間は肉体ではない。霊的実在である。この事実を深く心に自覚せしめるための行事が神想観である。神を頭脳で知っただけでは、神が゛わがもの゛とはならないのである。全心身をもって神の実在を体感体得しなければならない。それをなすのが神想観である。神想観を怠らず行ぜよ。
神想観を怠らず行じているうちに「人間神の子」の真理が、頭脳的知識から、感情的な把握となり、さらに進んで、全生命的な把握になってくるのである。神が単なる理論上の存在や、名称上の存在でなくなって、自己の生命そのものとの自覚を得はじめたとき、私たちの生活は変貌しはじめるのである。
霊の選士であり神の子である諸君よ。何よりも先ず神想観を修して毎日の出発をいたしましょう。そこからこそ諸君の真の進歩と歓喜と高邁なる理想実現とが生まれて来るのであります。
○ 神想観をしているうちに自然と「実相」が分かる
「神想観をして実相を観ずるといっても、実相を先ず知らして貰わないと実相が何だかわからぬから観ずるわけにはゆかない」と、こういう質問をされた方がありました。その人は、実相がわからないとそれを観ずるわけにゆかぬ、こう言われたのでありますが、私はその時、実相というものは、吾々の内性(うちに既にチャンとあるのですから、予めこう言うものじゃと知らしてあげなくとも、こういうふうにして実相を観じなさいと教えて貰った通りにして観じたらそれで実相を観ずることができるのであると、こうお答えしたのであります。
それはちょうど東京から大阪へ行くとして、大阪が仮に実相であると喩えましたならば、大阪をちゃんと、大阪というものはこういう形でこういう具合になっているということを先ず習わなければ大阪へ行くことはできないという訳のものではないでしょう。大阪が本当にあるのだから、ありさえしたらその大阪がわかるのは大阪へ行ったらわかるのだから、大阪の方を向いてこうして汽車に乗りなさいと、切符さえ買って貰って汽車に乗ったら、汽車が大阪へ着けば、ここは大阪だということがわかると同じように行く方向さえ聞かして貰って、その方向の汽車に乗れば良いのだから、それでこういう具合に神想観をして実相の方へ向けば良いと教えられたら、その通りにやれば好いのです。その中にだんだん実相に到着して行きます。
○ 毎日一回は神と対面しましょう
毎日一回は神様と直接対面する時間をつくろうではありませんか。あなたは毎日父母または夫または妻または子供または召使いまたは会社官庁の上役、同僚または下役に接触します。しかし、神様に直接ふれる時間をお持ちにならないのはまことに残念なことなのであります。
神想観は人間が意識的に神と接触する最も荘厳な行事であり、その時間こそ一日の内で最も神聖な楽しい時間でありますのに、何故多くの人は、それは懶(ものう)い退屈な、面倒くさい時間だなどと考えるのでありましょうか。
それは神想観を神と直接対面する荘厳な時間だと知らず、何か自分の心で「物」を製造したり、現世利益を得るための方便だ位に考えているからではないでしょうか。恋人に逢うのが楽しい位なら、神に直接対面する時間が楽しくないはずはないのであります。
○ 睡眠時間の少ない時ほど神想観をしよう
眠りしなに十五分間「神想観」をなさったら、その眠りが深くなって数時間睡眠時間が助かりますから、忙しくて睡眠時間の足りないような時ほど却って神想観をすべきものでありますのに、忙しいから出来ないとおっしゃる方は睡眠時間というものに捉われておいでになるからです。睡眠時間の多いこと必ずしも健康に良いとは言えない。少眠健康法というのすらあります。
○ 神想観こそ人類光明化運動の基礎
生命の實相の人類光明化運動なるものは、人類の不幸、災難、病気、窮乏等を救うために心の眼をひらかしめることに重点をおくのである。凡そ不幸、災難等に遭うのは、神の叡智が完全に、その人の心の眼のうちにひらかれていないめに誤った選択をするからである。吾々が真に凡ゆる面において幸福を獲得するためには、神智を啓発することである。吾々の内には宇宙をつくった神の叡智が宿っているのであるけれども、脳髄智のみを働かせて、その神智を働かそうとしないから、神智が眠っていたにすぎないのである。
生命の實相はその神智を人類から呼び醒まして正しき行為の選択によって地上に至福の世界を建設せんとするのである。神智をひらく方法として生命の實相では座禅的祈りの方式である神想観を行なうのである。。
つづく