あらゆる人生苦の解決と実例

 

 

○ 大乗仏教の神髄

 

 

 

物質は無い!

 

 

 

何という大胆きわまる宣言でありましょう。しかしこの真理こそいつの時代にも大切であって、この真理がいよいよはっきりするにしたがって人間は本当の自由がえられ、自己の霊的自在性が完全に発揮されるのであります。

 

 

 

釈迦は三千年前にすでにこの真理を明らかにせられた。「物質は無い!」色即是空だ。大乗仏教の経文の中心となっているのは、この五字の真理につきるといってもよいのであります。

 

 

 

しかし釈迦は相手しだいでいろいろの方便をお使いになったらしく、薬を欲しがっている病人には薬をやって病気をお治しになったということも経文には出ているのであります。

 

 

 

信仰さえあれば体温計であろうがボタンであろうが、口に入れさせておけば病気は治るのですから、釈迦は物質を仲介にして病人の信仰を喚起して治されたものとみえます。だからわれわれも決して薬剤を排斥するものではありません。

 

 

 

 

 

○ キリスト教の神髄

 

 

 

キリストになると病気や薬に対する態度はいっそうハッキリしているのであります。キリストはどんな病気でも難病だといわれたことはない。キリストにとっては、病(物質)は無いのだから、病に重いも軽いもないのであります。

 

 

 

弟子が難病者の病気を癒(なお)しそこなって帰って来ると、「おお、なんじら信仰薄きものなるかな」と彼は嘆じているのであります。これは病の治ると治らぬとは「病の物質的軽重にあるのではない。信仰の深い浅いによるのだ」という意味であります。

 

 

 

キリストは病の軽重をみなかったばかりでなく、死をもみなかった。ラザロが死んでいるのをみても「死せるに非ず、眠れるなり」と断言した。この断定的な信仰の言葉によってラザロは肉体的にも復活してきた。これをみても肉体は信念の影だということがわかるのであります。

 

 

 

またキリストは誰にも薬を処方してあげられたこともなければ、食養法を説かれたこともなく、あべこべに、「なんじら何を食らい何を飲まんと思い煩うことなかれ」と切言せられているのであります。

 

 

 

ラザロは万人の目からみて現に死んで数日たつのに、キリストにとっては、「物質は無い!」のであるから、死んで腐りかかっているラザロの肉体などは心の目に触れなかったのであります。

 

 

 

彼はラザロの霊なる「真の人間(リーアル・マン)」を見た。神によって造られたる神の子たる「神人(ゴッド・マン)」を見た。「真の人間」「生命の実相」「神人」を認めることによって「真の人間」が現象的にもノコノコ立ち上がって動き出した。これがラザロの復活であります。