◎ あらゆる人生苦の解決と実例

 

○ 真理の治験例

 

つづき

 

 

 

以上は病気についてのクリスチャン・サイエンスの治験例でありますが、次には「生命の實相」で、癒されて健康と運命を改善せられた実例を、皆さんの信念を強めるために申し上げようと思います。

 

 

 

○ 心の力で椎骨(ついこつ)は調整しうる

 

 

 

先日、岐阜の一読者からこういう手紙が来たのであります。「自分は数年来強度の顔面神経痛にかかって夜も眠られないほどの苦しみでありますが、あらゆる医療という医療、あらゆる治療法という治療法を試みたけれども、寸効もなく失望しています。近ごろある透視家に診てもらったところが頸椎骨(けいついこつ)に物理的の狂いがあるので、それを物理的に治さないかぎりはこの神経痛は治るものではないといいます。しかし当方は田舎でそんな椎骨を治す医者はないのです。御地付近に椎骨の矯正をする名医があれば知らしてください」というお尋ねの手紙です。

 

 

 

わたしはさっそく、神戸のカイロプラクター桜井某と、東京にある某々椎骨矯正医二名の住所を知らしてあげ、それに付け加えて、「あなたが物理的にその病気を治そうと思うならばこれらの人たちにかかってみてください。それも一つの方法です。

 

 

 

しかし真理を申せば、物質はそれ自身において痛みを感ずる力はないのです。だから痛みを感ずるのは『念(こころ)』です。

 

 

 

『痛いと思う念』が痛みを感じているのです。『念(こころ)』から『痛い』という思いをとってしまえば痛むものではありません。ところが、心はこれ『生命』のはたらきであって、『生命』は神から受けたものですから完全であって病気になるものではありません。

 

 

 

病気だと思う『迷いの念(こころ)』が痛むはずもない物質の肉体を痛むように思わせているのです。

 

 

 

椎骨の脱臼ということをこのごろだいぶやかましくいいますが、椎骨と椎骨との間には伸び縮みの自由なゴムのような靭帯(じんたい)があって、それが椎骨を一定の位置にたもっているのです。その靭帯が一方へ痙攣(ひきつ)けて不平均でいれば椎骨が脱臼しているのです。

 

 

 

この靭帯というものは物質だから、自分自身の力では一方へ痙攣(ひきつ)ることはできないのです。もしそれが痙攣っているならば、あなたの心がこれを引きつらせたのです。あなたの心が引きつらせたのならば、あなたの心が健全に帰れば靭帯の不平均な一方への痙攣も治りますから、椎骨の脱臼も治ります。

 

 

 

もし心で病気を治そうとお考えになるのでしたら、『神想観(しんそうかん)』を実修して神との一体感に完全に精神が統一したとき『自己の生命は神の子であって病気になるはずはない。

 

 

 

そして物質には心がないから痛みを感ずるはずがない。痛みは迷いである』と繰り返し繰り返し念じてごらんなさい。きっと治ります」と書いてご返事を差し上げたのであります。

 

 

 

この方が神想観の実修をされたのは六月二十日からであります。二十日から五日間はこちらからも「祈り」と「思念」とを送ってその実修をおたすけし、あとはその方の自修にまかせておきましたところ、翌月の五日出(いつかで)の葉書には、「おかげさまで昨今(さくこん)では数年にわたる難病もほとんど全快しました」という快報が来たのであります。

 

 

 

「神想観」を実修せられてからまだ半月しかたたないのに、「生命の実相(ほんとのすがた)の自覚」さえ行なわれれば、数年間不治の難病でもこんなにすみやかに治るのであります。

 

 

 

こんなにもたやすく病気は治るものであるのに、医学が進歩しいろいろの物質的薬が発明せられてくると、かえって病気がなおらなくなるのみか、新しい病気が続々と殖えてくるのは、医学が進歩すればするほど、「生命は神の子だ」という信念がいよいよますます稀薄になってゆくからであります。

 

 

 

薬物に対する信仰が高まれば、「生命」に対する信仰、自己の「神性」の自覚はだんだん薄まるのであってこの二つはけっして両立しないのであります。だからできうる限りわれわれ、薬物その他の物質的方法に頼ることをやめて、「生命」の霊妙性を自覚するように努め、これによって、「生命」それ自身の力を発現せしめて病気を治すようにしたいものであります。

 

 

 

生理学者は人間の筋肉には随意筋と不随意筋とがあって、随意筋は自分の心で思うように動くけれども、不随意筋は自分の心では随意に動かすことができないといっているのであります。しかしこれはただ表面そう見えるだけのことで、心で動かない肉体組織はないのであります。

 

 

骨の位置を定めている靭帯でさえも、前述のように心に真理を自覚すれば正しい位置にかえるのでありまして、胃腸や心臓の運動が心の力によって正しくなったり不整になったりするくらいはあたりまえのことであります。

 

 

 

 

注・神想観(しんそうかん)とは

 

 

神想観

はしがきより

 

 

「真理は汝を自由ならしめん」とキリストは教えたのであるが、真理を自覚し得たものは自由自在を得るのであって、それを仏教では解脱と言う。真理を自覚して大自在の境地にまで解脱したる者を仏教では覚者すなわち仏陀と言うのである。

 

「解脱を以って仏となす」と涅槃経には録(しる)されている。キリスト教も仏教も結局は、真理を知ることによって、一切の苦悩その他の繋縛から脱して大自在の境地に衆生をして達せしめんとするのがその教えの最後の目標だと言い得るのである。人間界の一切の苦悩は、戦争等によって、自己破壊を刻々身辺にちかづけつつあることをも含めて、すべて迷いによって自己の想念行動を自縄自縛しているからである。真理を知ってこの自縄自縛を解き放てば、地上に天国浄土ともいうべき至福の世界が実現することは必至である。

しかし、如何にすれば、人類が自己解放を逐ぐべき真理を自覚し得るであろうか。釈尊は、六波羅蜜すなわち、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、般若の六つの倒彼岸の道を示された。神想観というのは、私が修業中に神授せられたる般若の知恵を禅定によって到達せる道である。

 

 

「実相覚」によって真の自己を把握するのが神想観

 

存在(もの)の実相を捉えるには、吾々は「実相覚」によって「一つの神」即ち、在りとし在らゆるものを在らしめている一つの力を認めねばなりません。本当の人間ー神が造ったままの人間ー私が常に「真の人間(リーアル・マン)」又は「神人(ゴッド・マン)」と言っている人間は物質の人間ではないのであります。それは円相の人間、光明身の人間、自在身の人間、清浄身の人間、虚空身の人間、無優苦の人間、絶対無病の人間、 ー  いくら吾らか上等の最上の言葉をもって説明しても、この物質界の事物を形容するためにできている吾々の通用語ではとても説明のしようがないほど完全な人間であります。そんな人間がこの世界に実際あるものかと疑う人もありましょうが、皆さん各自(めいめい)が、今現に実相の世界においては、この霊妙な円相の人間、光明身の人間、自在身の人間、清浄身の人間、虚空身の人間、無優苦の人間、絶対無病の人間、等であられるわけで、それが本当のあなたなのです。この「真の人間(リーアル・マン)」をおいてその他にあなたはないのであります。あなたは真の人間ー即ち「神の子」なのであって、今あなたが、これこそ自分の身体だと思っているその肉体は「ウソのあなた」「念の影のあなた」なのであります。 

 

 

本当の自分の実相は、今も厳然として実相の世界に存在する。今までも天地と共に生き通してきた、これからも天地と共に生き通して朽ちず老いず苦しまず病まず、悩まざる円相的妙楽の存在、金剛身、不可壊身(ふかえしん)、無量無辺身、自由自在身、久遠の如来、アブラハムの生まれぬ前(さき)より在るところの「久遠のキリスト」なのであります。今まで自分達の実相をこの肉身であると思っていたのは自己の真性を磔(はりつけ)に架け、自己の実相をエデンの楽園から仮に追放して有限身をもって無辺身に換え、有限生命をもって無限生命に換え、自己の生命の実相をおおいかくしていたのであります。そのおおいを取り去って自己の内に宿るキリストを復活せしめる、これがキリストの再臨であり、普賢菩薩の在す実相浄土「東方浄妙国土」の地上再現なのであります。これこそ一切苦厄を度(すく)う神癒の根本原理であって、この原理を、自分に宿る真理と宇宙に存する真理と相触れてカチカチ鳴る底の直接的認識作用すなわち「実相覚」によって悟らなければ、吾々は「本当の自分」を把むことができない訳で、この自己を把むためにする修行が神想観の修行なのであります。

 

神想観のやり方は、谷口雅春先生ご指導のをyoutubeでご覧下さい。