◎ あらゆる人生苦の解決と実例

 

 

 

光の子とならんために光のある間(うち)に光を信ぜよ、われは光として世にきたれる。(ヨハネ伝第一二章)

 

 

 

皆さんが「生命の實相」の説くところを読んだり「神想観(しんそうかん)」を実修したりして、神の子たる自己の生命の実相(ほんとうのすがた)に触れ、真理をさとって病気(その他の人生の凡ゆる不幸)が治るのは、他の類似の治療法のおよびもつかぬ根本的な治療であります。

 

 

 

なぜなら、それは自己の生命の実相が自覚されてくるにしたがって、本物でない、ウソの、仮の、迷いの、実際はありもせぬのにあるようにみえているいろいろのあらゆる人生苦が、あたかも光が輝き出せば闇が消えてしまうように消えてしまうからであります。

 

 

 

他の治療はすべて、毒をもって毒を制するとでもいいましょうか、無明(まよい)をもって無明を征服するとでもいいましょうか、ともかく一つまちがった信念 ― たとえば、病はあるという信念―を、他のまちがっている信念―物質(薬)が生命を補うという信念―によって破壊する方法であります。病があるという信念よりも、薬が生命を補うという信念の方が強く働けばこれで病気はなおるのであります。

 

 

 

○ 生命みずからで治せ

 

 

 

「薬が生命を補う」という信念で病気が治るのは、いっけん、非常に結構ではあるけれども、同時にそれは逆に生命は薬によって、補填(つぎはぎ)しなければ完全ではない ― という消極的信念を喚び起こすことになり、自己の「生命」それ自信の完全性の自覚をそれだけ弱めることになります。

 

 

 

自己の「生命」に対してその完全性を自信することができなくなったが最後、その人はもはや物質の奴隷または家来であって、物質によって生殺与奪(せいさつよだつ)の権を握られている悲惨このうえもない人間になるのであります。

 

 

 

それでは霊的療法なら他の霊力ある人に頼って治してもらってもよかろうといわれる方があるかもしれませんが、それは薬物療法でも霊的療法でも結局は同じことであって、自分以外の他の物に頼らねば自分以外が自分を治す力がないという信念をつぎこまれるということは、しょうらい自己の「生命」が生長の本道をたどってゆくうえに重大な障害となるのであります。

 

 

 

で、私は皆さんはむろんのこと、皆さんの知人のかたにも、「みずから起て。生命みずからで治せ。何ものにも頼るな」の一点張りで押し通したいのであります。「生命」みずからの力で自分自身を治すことができるならば、なんの弊害もない、弊害がないばかりか、治すたびごとに「生命」自身の霊妙な力についての自身ができてくるのであります。

 

 

 

 

○ 真理はなんじを自由ならしめん

 

 

 

「生命」自身の力で治すには「生命」とはいったいどんなものであるかということを知らねばなりません。表面(うわつら)の心で知るだけでなく、奥底の心で知らねばなりません。

 

 

 

「生命とは神の子である」ー  一言にしてこういえばなんでもないけれども、なかなかこの真理が本当にわかる人が少ない。本当にこれがわかれば自分で自分を治すことができる。治すのではなく、真理を本当に知ったときひとりでに治っているのである。

 

 

 

つまり、キリストのいった「真理はなんじを自由ならしめん」とはこのことであります。釈迦のいった「大覚(さとり)をうれば因縁を超越してしまう」とはこのことであります。

 

 

 

「真理を知る」というのも「大覚(さとり)をうる」というのも、ひっきょうは自分の生命の本質すなわち実相を知ることで、これができれば因縁を超越して完全な自由がえられるのであります。

 

 

 

その人は因縁を超越しますから、物質的な原因結果に束縛されるようなことがけっしてなくなる。遺伝がどうの、体質がどうの、冷たい空気がどうの、固い食物がどうの  ―  そんなことに縛(しば)られないで「生命」それ自身の本質の完全な状態  ―  すなわち「真の人間(リーアルマン)」が表に出てくる、そのときすなわち病気が治ってしまうのであります。

 

 

 

真理を知って病気がなおるのは、恐怖心と不安とが去って、精神的に安心ができるからであろうから、神経的な病気は治っても実質的な病気は治るまいと思われる方がありましょうが、それは物質とはいったいなんであるかを知られない方のいわれることであります。

 

 

 

前章の「近代科学の空即是色的展開」にもちょっとのべておきましたように、物質の分子と分子との間はけっして密着しないで非常な距離が隔たっており、その間隙には無形の知性ある精力(エネルギー)があって、その物質を一定の形に維持しているのであります。

 

 

 

肉体という特殊の物質にあっては、とくに密接にわれわれの心のはたらきが、物質に一定の性質を与えているところのこの無形のエネルギーを支配しているのであります。

 

 

 

だから心の働き一つで肉体という物質の形や化学的成分までも変わるのであります。「金光教」では「理解」といってお道がわかれば自然に病気が治るとされています。「天理教」ではあらゆる病気はそれに応ずるそれ相当の心のさわりがあるからで、その心のさわりをとるようにすれば病気は治るものとされています。

 

 

 

また実際これらの宗教では多くの治った例をもっているのであります。金光教や天理教を引き合いに出すと迷信くさいといわれる方には、最近科学の精粋たる精神分析を引き合い出せばよいでしょう。

 

 

 

多くの病気は、心から曇りを吐き出して掃除してしまえば薬も霊術もなしに自然に治るのであります。心の中から曇りを吐き出すことを精神分析学では観念洗浄(かんねんせんじょう)といっていますが。宗教では「懺悔(ざんげ)」といっている。「懺悔」すると病気が治る。

 

 

 

なぜ治るかといいますと「懺悔」して心の中の五目多(ごもくた)を放下してしまうと、「生命」本来の健全なる実相があらわれてくるからであります。

ともかく、「生命」の素地(きじ)を出すように磨きをかけさえすれば、「生命」が本当に完全な相(すがt)をあらわしてくるのであります。

 

 

 

「生命の實相」のように真理を書いた書物を読むということはその一つの方法であります。「神想観」によって「生命の実相」を観ずることも一つの方法であります。

 

 

 

クリスチャン・サイエンスの創始者エディ夫人はその晩年にはみずから病人に治療をしないで「私の著書を読め、真理があなたを治すでしょう」といったそうであります。それでじっさいエディ夫人の著書を読んでたくさんの病人が治っているのであります。

 

 

 

最近ではユニティ協会という新しい実践キリスト教団の書物を読むだけで病気その他の不幸が消滅している事実もあり、われわれはユニティの出版物を要約して「人生の鍵シリーズ」として別に紹介しているのでありますが、クリスチャン・サイエンスやユニティはキリスト教の聖書のほかに典拠をもとめないが「生命の實相」は仏典にも、日本古典にも、最近の電子論、スピリチュアリズムにまでも典拠をもとめて、古い人にも新しい人にも、またいかなる宗派の人々にも、真理がみずからの宗教として悟れるように説いてあるのであります。

 

 

 

真理はキリスト教のみにあるのではありませんから、一つの真理をクリスチャン・サイエンス(キリスト教の真理)として説くことも結構ですが、同時に仏教の真理、または日本古神道の真理としても説くことも必要であります。

 

 

 

そうでないとキリスト教以外の多くの人々を救うことができないのであります。これがわれらの万教帰一的立場であって、説くところ真理は一つであるけれども博引傍捜(はくいんぼうそう)どこからでも真理を引っ張って来てそれの自覚に入らせる道を講ずるのであります。

 

 

 

その点において「生命の實相」は非常に自由なのであります。つぎに本を読むだけでも、真理を悟れば、いかに各種の難病が治るものであるかの実例を示して、病気の本来「無」なることを明らかにし、病気で悩める人々への励ましとするために、試みにエディ夫人の著書の中から面白い治験例を引用することにいたします。

 

 

 

つづく