人間は何のために生きているのであるか


ということをかつて私は真剣に考えたことがありました。普通「肉体」が自分であり「肉体」が無くなればその人間の生命は終わるのであると考えている唯物論では人間は何のために生きているのかと言っても、ただ偶然に親の胎内から生み出されたのであるから、何のためというような確乎たる目的は考えられないので、強いて考えれば、出来るだけ人間は楽しんで人生を終わればよいということになるのであります。

そこで感覚的快楽を追求する快楽主義に陥るのですがこのような快楽はアへンを吸収するにも似て、次第に同一快感を得るために刺激の量を増して行かねばならなくなり、しかもそれに伴って実に淋しいやるせない寂寥感に襲われるのであります。この寂寥感をまぎらわすために彼らはやたらにアルコール、ニコチンその他の麻痺剤を用いて良心を麻痺せしめるようになる。このようにして淋しさをまぎらわしながら感覚的快楽追求に深入りして行くのであります。
しかしながら食欲を満足させるのでも、性欲を満足させるのでも、これを最大限に満足させようと思っても色々の障碍があって、満足さすことが出来ないことがわかるのであります。たとえ満足させることが出来ても、官能の歓楽には必ず、或る種の刑罰がつきものであって、食べすぎたり飲みすぎたりすると胃腸を害するし莫大な金銭がいるのであります。又性欲の満足をほしいままに行おうとすれば性病にかかり、金がかかったり、その他社会の道徳的規準から罰せられたり、男女愛欲の葛藤でクタクタになるまで悩まなければならない事になるのであります。